海外で活躍する卒業生 第7話 中国/59期 浜野重隆

   2014/04/13

海外で活躍する卒業生 第7話①

定年後、15年間の中国生活を送って

59期卒 浜野重隆

1995年春、後1年でとうとう60歳、長かったサラリーマン生活も間もなく終わろうとしていた時期でありました。

さて定年後の自分は何をすべきか、何の用意もないままいたずらに時間だけは、焦る気持ちとは裏腹にどんどん過ぎてゆき、それならば何とか日頃思っている事を実行してみようと決心を固めてのもこの時でした。

当時はまだバブルの余韻が残り、まだまだ日本の経済は右肩上がりで進んでいくのではないかと思われていた時代でもありました。しかし一方ではこの年の1月には阪神淡路大震災の起こった年でもありました。

中日関係については、学生時代に中国研究会に所属していた関係から大いに興味がありましたが、経済発展と共にODAによる日本から中国への援助資金は年々増え続け、その割には中国側からの感謝の気持ちも、友好的な状況も我が国に対してはダイレクトに伝わってこないのが当時の両国の関係であったように思います。

これは一体どう言う訳なのだろうか、一般の中国の人々は本当はどのように思っているのだろうか、私自身どうせこれからは毎日が休日、暇を持て余すなら、中国へ留学をして中国語を学ぶことによって直接中国の人たちと交流をし、日本人の疑問をぶつけてみたい、そしてお付き合いの中から、本音を聞き出してみたい、お互いの本当の気持ちをぶつけあうことから真の友好関係が生まれてくるのではないかと考え留学の準備に入ったのが、1996年の年が明けて直ぐの事でした。

中国についての知識はサラリーマン時代には国内の仕事に没頭していた関係から、全く友人、知人等の頼るべき人物は1人もいないので、留学の希望を直接中国の大学宛てにパソコンの無い時代、手紙を使って、40数校に向けて発送、全て断りの返事が戻ってきたのが定年の日も迫った初夏のころでした。

当時は中国の教育部(日本の文科省に相当)の規定により45歳以上の留学生は受け入れないと言う事になっていたのでした。

しかし捨てる神あれば、拾う神あり、最後の1通が、江蘇省の国立蘇州大学の担当者の目にとまり、60歳という年齢から健康に自信があれば留学試験の成績により短期留学を認めてもよいと言う返事が届いたのが定年1か月前の事でした。ようやく恐る恐る諸手続きを済ませ蘇州入りをし、試験面接等厳しい審査の結果どうやら漢語科の最もレベルの低いクラスへの入学を許されて、9月からの新入生として世界中の若い留学生たちに交じって机を並べる事が出来たのでした。

1学期が終わり短期留学生である私には、これで中国語を学ぶチャンスが終わるのかなと覚悟をしていたところ、期末試験が済んだその日に、学校から呼び出しがあり私に来学期から日本語の講師として教壇に立ってみないかと言う夢のような申し出がありました。

まだ中国語は勉強の初歩でしかない私でしたが、将来は中国で日本語の先生になってやろうと言う野心は持っていましたので、二つ返事で引き受ける事にいたしました。

3月からの2学期に入り、私は日本語学科からの依頼もあり何か自己紹介も兼ねて話をして欲しいとの要望がありました。

そこで日頃思っている事を話してみたいと思い、次のような事を学生たちに向かって訴えました。

中国の皆さんは、中日友好と言いながら過去の日本との関係にはとても厳しい評価をする事がある。しかし私は1936年生まれだが、中国と日本が戦争していたなんて知っていて生まれて来たわけではない。

そして近代史の中では、1840年代の阿片戦争から始まり太平天国の乱、義和団の乱、日清、日露の戦争と清朝の末期には国内ではわずかな期間に、動乱、騒乱が続き国力が急速に弱まったところへ世界の植民地政策に乗り遅れまいと日本軍の侵入を招いた。これは中国自体がここまで国内の政治面のコントロールが出来なかった結果ではないのだろうか、1936年以来両国の間には、戦乱の中では国民感情としてはいろいろな事があったと思う、しかしそれを乗り越えてこれからの千年の礎を築いていくのが、今生きている我々の責任ではないのだろうか、と言う主旨話をいたしました。

一瞬学生たちは、戸惑ったような顔をいたしましたが、次の瞬間一斉に立ち上がり大きな拍手を送ってくれた事は、忘れ得ぬ思い出となりました。

蘇州大学での3年間は、やはり国立大学で教鞭をとると言うネームバリューは大変なもので面白い、変わった日本人の教師が蘇州大学にいるとの評判で、市内の日本語科のある大学、短大、カルチャーセンター等からの要請により6か所の日本語の教師を忙しく約2年間続ける事となりました。

その後体力の限界を感じ、1999年5月より75歳の定年まで蘇州農業職業技術学園(短大)の教壇に立つこととなりました。

中国の学歴社会と言うのは、ご多分にもれず大変厳しく人口比では大学の数は非常に少なく若者たちの4年制大学に入学する希望には十分な対応が出来ていないと言うのが現状であります。

従って当校のような短大へ入学してきた学生には、大変なコンプレックスを背負ってくるものが多く入学してしばらくは、無気力な生活をするものがよく見かける事がありました。

私は、幸い日本人であり日本語科の教師であった為、世界の大都市の中で毎年定期的に行われている日本語能力試験に、1級、2級、3級、4級とあることに着目、日本語を学ぶものはこの1級に合格すれば、4年制の一流校も我が短大も同じ土俵上で社会に出てからは実力の勝負が出来るのではないかと叱咤激励をし、最高の資格を目標にこの学校に1級クラブと言う日本語クラブを立ち上げたのでした。

2003年の10月の事でした。部員は日本語科の学生、約600人の中から毎年30人の部員を選び特別授業などを行い、毎年能力試験の1級には80パーセント~90パーセントの合格率を上げることに成功し中国では注目される日本語科に成長する事が出来たのでした。今では毎年江蘇省のスピーチコンテストでも当校の学生たちは上位を占め、もはや日本語科においては、学歴コンプレックスは払拭されたと言っても過言ではありません。

すでに2003年から2010年までの卒業生1500名の中には、能力試験の1級に合格した学生は180名を超え好条件の就職先を目標にしております。

又学生たちの日系企業の当校の就職率は群を抜いて高いのも当校日本語科の誇りとするところであります。

蘇州近辺には最も早くからの日本企業の進出が行われ、約3千社、中国人従業員の雇用は100万余人とも言われております。従って数年前に北京、上海などで起こった投石事件などは、1件も起こらなかったと言うことは特記に値することだと思います。

2010年11月75歳になった私に外人教師としての定年の知らせが教育部より入りました。

知らせを聞いて各方面からの協力もありましたが、規則は如何ともし難く、今年の2月を持って帰国をすることになりました。

帰国間際には、学校側、卒業生、蘇州の各企業の代表等に盛大な送別会を催していただき、感謝の気持ちでいっぱいでありました。特に学生たちの有志が自分たちのお金を出し合って、大型バスをチャーターし上海空港まで私を見送り、上海勤務の学生たちを交えて、大勢の教え子が、私が搭乗口に向かおうとした瞬間、リーダーの命令一下、一斉に整列をして空港中に響けとばかり、お客様たちの驚く顔をしり目に、「先生!ありがとうございました!」の一言にはそれまで絶対に涙を見せまいと頑張っていた肩の力が抜けてしまい。後ろを振り向く事も出来ぬまま搭乗口へ向かってしまいました。

いま15年の中国生活を振り返る時、定年までの約40年間のサラリーマン生活を送り、第2の人生を精いっぱい中国で過ごす事が出来、人生の素晴らしさ、定年後にこんな充実した人生が自分に残っていたのかと改めて生きていく時に、生かされていると言う大きな力を感じる事があります。

これからも健康の続く限り、日中関係はもとより人の為にお役に立つ人生を歩んでいきたいと思っております。

海外で活躍する卒業生 第7話②海外で活躍する卒業生 第7話③