今なぜ後藤新平か― 震災復興・大政治家不在

   2014/04/13

今なぜ後藤新平か①

東北地方太平洋沖地震(3月11日、気象庁)が東日本大震災(4月、閣議)となって6月で3ヵ月目にはいる。この間、メディアはひっきりなしに母校3代目学長だった後藤新平を前面に打ち出す。1923(大正12)年9月1日発生した関東大震災(小田原沖地震)後、速やかに帝都復興院を立ち上げ、自ら総裁に就任して大活躍した政治家だった。その後藤に代わって立つ現代の政治家は目下ゼロである。これからも「後藤新平」の名は何度でも登場するはずだ。注目したい。

出よ、平成の後藤新平

総合雑誌・文藝春秋5月特別号(4月9日刊)緊急寄稿<われらは何をなすべきか―叡智結集41人>に、拓大でもおなじみ櫻井よしこ氏、中曽根康弘名誉総長、猪瀬直樹都副知事(作家)の提言のほか、ジャーナリスト藤原作弥氏(作家・元日銀副総裁)が「出よ、平成の後藤新平、高橋是清」を力説しているのが目についた。氏はまず「自然災害は人災を伴う」から「リーダーシップの欠如」を説く。

「震災といえば大正十二年の関東大震災に際し、内相(注・内務大臣)だった後藤新平は自ら帝都復興院の総裁としてリーダーシップを発揮し、都市のグランド・デザインを描いてみせた。後藤新平については二〇〇五年七月に創立された『後藤新平の会』(粕谷一希・代表幹事)が”明日の日本のために”その全業績の調査・研究を終えている」

「偶然ではあるが、高橋は仙台藩(宮城)、後藤は水沢藩(岩手)の出自。平成の高橋是清(注・大蔵大臣)、後藤新平の登場が切望される所以(ゆえん)である。さらにはそうした人材を束ねリーダーシップを発揮する大器の登場が―」。と結んでいる。

週刊文春4月28日号

この1冊の中に、なんと「復興を支えた『日本人』特別座談会」福田和也(慶大教授)×中村彰彦(作家)×水木楊(同)に加えて、「<都市計画>という幻想」(コラム連載・小林信彦)もという2本立てだ。前者は後藤新平の写真、後者は同じくイラストを掲げてクローズアップする。

水木 関東大震災後の復興に尽力した後藤新平も、台湾総督府で八年間民政長官を務めた経験が大きかった。
水木 「遷都案」が却下され、登場したのが後藤新平です。後藤は震災前に東京市長をやり、すでに”八億円計画”と呼ばれる東京改造計画を示していました。まさに帝都復興にうってつけの人物として、震災後の山本権兵衛内閣で内務大臣と帝都復興院総裁を兼務したのです。

「大風呂敷」は確信犯だった

中村 当時の内務省といえば、警察、治安、衛生、自治などを所轄する超巨大省庁。後藤には大変な権力が集中したわけですね。
水木 権力とともに、後藤は人材を集めました。たとえば十河(そごう)信二。後藤の肝いりで鉄道院に入った十河を、後藤は復興院の経理局長に抜擢します。
福田 後に満州鉄道の経営に力を振るった十河は、戦後、国鉄総裁となる。十河なしでは、今の新幹線もなかったでしょう。(略)
水木 後藤はとかく「大風呂敷」だと言われますが、私はあれは確信犯だと思うんです。(略)大きく吹っかけたのだと思います。
福田 後藤を理解するうえで重要なのは、彼が医師出身、それも防疫の専門家であったことでしょう。上下水道の整備など、都市計画と衛生政策は結びついています。(略)

コラムニスト小林信彦

見開き2ページが後藤礼賛に終始する。

「そこで持ち出されるのが後藤新平の名前である。岩手県の出身というので、東北人には、よけい魅力的なのかも知れない。(略)ぼくは二十年ぐらい前に、後藤新平の業績を調べたことがある。だから、現在の政治家で、後藤のような大仕事を出来る人間がいないことを保証できる。(略)一九一九年に都市計画法と市街地建築物法(今の建築基準法)を公布した。大正でいえば八年。(注・拓大校歌制定、後藤学長と新渡戸稲造学監が第1次大戦後のヨーロッパ視察に出かけた年)

後藤は一九二三年(大震災の年)の四月に市長の座を去るが、後任が二代続けて後藤の腹心の永田秀次郎(注・第4代拓大学長)、中村是公(これきみ)(漱石の友人)だったので(略)「おれがやらなければ、ほかにやれる人間がいなかったからだ」と、後藤はのちに語っている。後藤新平とその弟子たちが作り上げた東京にぼくは生まれ、育った。あれほど住み易く、美しい街はなかった、と今にしてつくづく思う。」(以下略)

後藤新平という光と陰

アエラ5月2~9日号(朝日)ノンフィクション作家・山岡淳一郎「大震災の復興を語るとき、お手本のように名前が挙がる人物がいる」で始まり「摂政宮として関東大震災を経験した昭和天皇は、震災から60年後、こんな発言をしている。『後藤新平が非常に膨大な復興計画を立てたが…。もし、それが実行されていたらば、おそらく東京あたりは戦災は非常に軽かったんじゃないかと思って、今さら後藤新平のあの計画が実行されなかったことを思うと非常に残念に思っています』」(「陛下、お尋ね申し上げます」高橋紘著・文春文庫)(略)「いま後藤がいたら、何をしただろうか。東日本大震災の被災地は広範で被害も多様だ。おそらく、被災地に専門家を大動員し、徹底的に聞き取り調査をしたに違いない」。

復興へ政治の力結集を(朝日新聞社主筆 若宮啓文)

5月1日付1面に「首都が壊滅した23年の関東大震災でも3週間後には復興院ができ、名高い後藤新平総裁が誕生する。学者中心でできた今度の復興構想会議の上には、実行力があり官僚も動かせる政治家が欠かせまい」と指摘する。

後藤新平は読売の大恩人

1960(昭和35)年11月1日、拓殖大学創立60周年記念式典(文京・茗荷谷ホール)で正力松太郎読売新聞社主の特別講演があった。演題は「後藤新平の思い出」―昔、正力社主が経営危機に陥った読売を立て直すとき、後藤学長は自分の邸宅を抵当に入れて金を作り、黙って用立ててくれたという逸話である。(麗澤会活動の記録㊦150ページ)正力社主は後藤新平が読売の大恩人であることを終生忘れたことがない、そういう話をしたに違いない。

4月9日付読売13面(解説・五郎ワールド)は、橋本五郎特別編集委員が「大震災の政治学」を書いた。後藤の写真入で<後藤新平の「失敗」に学ぶ>を詳しく述べ「政治的には失敗したが技術的には成功した」ことを力説。

4月30日の読売11面(文化)は<「弾丸列車」実現へ>で、後藤に重用された十河信二(前出)が1964(昭和39)年に開業する東海道新幹線計画を推進するプロセス―。十河は戦後苦難の歴史を歩む拓大の理事をあえて務めた。後藤への恩義を忘れず、後藤が育てた学校を守ろうとした。

4月11日の日本経済新聞24面(経済教室)も<震災後の日本政治に緊急提言>に北岡伸一・東大教授と御厨貴・同が「後藤以外の人は考えられなかった」、「後藤はプロジェクト型のリーダーだった。台湾統治にせよ、満鉄経営にせよ、大きな目標のためにベストの政策を考え、異種混合の人材をそろえ」とページ全部を”後藤”で埋めた。

日経ヴェリタス5月8~14日号もいい。<帝都復興院総裁「大風呂敷」と呼ばれた男―後藤新平から学ぶもの▼関東大震災後の復興、どう導いた▼医者・科学者でもある政治家の功績>。それから文藝春秋6月特別号(5月10日発売)は、もっといい。<歴史の暗合―関東大震災と東日本大震災 座談会>半藤一利(作家)保坂正康(ノンフィクション作家)御厨貴(東大教授)のタイトル上部に後藤新平笑顔の写真が置かれた。そしてP96からが「後藤新平の存在感」だ。

12年前に福田勝幸常務理事も

表題「今なぜ後藤新平か」は、裏返せば「第2の後藤新平は不在」ということに尽きよう。ところで、この表題、1999(平成11)年10月創刊の「日本文化」(拓殖大学日本文化研究所)に当時大学総務部長の福田勝幸現常務理事(創立百年史編纂室長)が<後藤新平に現代を学ぶ>を執筆したことと通じる。また、渡辺利夫学長も「アジア・ルネッサンスの時代」(2000年、学陽書房)の中で<第五講・日本の活路―いま、後藤新平>を取り上げ、青山?×北岡伸一×松本健一×渡辺利夫で「近代日本に総理大臣は大勢おりますが後藤新平は一人しかいません」(北岡)と指摘している。

宮澤正幸(創立百年史編纂室・51期)

今なぜ後藤新平か②