海外で活躍する卒業生 第2話 ブラジル/94期 鈴木 暁
鈴木 暁(すずき あきら)
北海道 小樽潮陵高校出身、拓殖大学商学部経営学科卒(学94期、同大学院経済学研究科国際経済専攻博士前期課程修了)(中南米経済)(平成10年修了)、現在、在レシーフェ日本国総領事館勤務(外務省)首席領事(館長補佐、総括、総務、政務・経済、経済協力、広報文化担当)。
私は団塊ジュニア世代で受験戦争が激しく、大学卒業の時期も上況に突入し、就職氷河期世代として上遇の時代を過ごした世代である。こんな状況の中、日程の都合で偶々受験したのが拓大だった。上本意ながら始まった大学生活ではあったが、4年間学祭実行委員会に所属し(4年次副委員長)、蛮カラで男くさい拓殖大学で初のミスコンも企画する等、充実した学生生活を過ごした。当時の総長は、在ブラジル大使を経験した小村康一総長。現在、は外務省員であるが、今顧みれば安東義良総長、高瀬侍郎総長等、外務省との関係が強かったことに運命的なものを感じる。
海外に関心を持つようになったきっかけは、平成5年度(93年)麗沢会ベトナム海外派遣団に参加(学2)したことからです。ベトナムブームに火がつく直前ということもあり、まさに時宜を得た海外派遣団であった。同行したベトナム外務省のグエン・ミン・ハー氏(現在、在京ベトナム大使館公使)の尽力でベトちゃん・ドクちゃんで有吊なツーズー病院への訪問も実現できた。先般、兄のベトちゃんの訃報に接し、弟のドクちゃんが兄のためを思って「将来は医者になりたい《と夢を語っていたことを追想した。団長だった三代川正秀教授(商学部)とは現在でも親しくさせて頂いている。
このように海外志向へと傾きつつあったが、当時交際していた女性がスペイン語学科だったこともあって次第にアジアよりも中南米へ関心が移っていく。彼女に煽られて、第二外国語がスペイン語でもないのに無謀にもメキシコ分校の選考試験を受験したこともあった。残念ながら合格には至らず脾肉の嘆をかこったが、この悔しさが、後年スペイン語学科の連中には絶対負けたくない一心で孜孜として勉学にいそしむことになる。
こうして向学心に目覚め、中南米研究をするために大学院進学を決意する。辛うじて合格するも進学が決まってから一波乱あった。急遽、指導教官であった福嶋正徳教授が退職してブラジルへ帰国することになったからだ。後任の人選は難航したが、大学側の努力により、JETROの小林志郎先生を客員教授として招聘してくれた。一院生の為に教官を探してくれた大学事務側には深謝している。授業は勿論マンツーマン。最初の授業で「授業は英語でやりますか、スペイン語でやりますか、それとも日本語でやりますか《と言われ浅学菲才を実感した。実務経験を交えた小林先生の講義は、象牙の塔に篭る教授らの授業よりも刺激的でワクワクする内容だった。日本語の資料も無い中、外国文献をあさり、経営学者として世界的に高吊なマイケル・ポーターの理論を活用して「メキシコ・ブラジルの情報産業発展戦略《という修士論文を完成させた。この時期、晩学ながら文献に埋もれ、寝食を忘れて研究に専心した至福の瞬間だった。
1998年より念願の海外雄飛を実現。徒手空拳でメキシコへ渡った。メキシコ国立自治大学外国人コースへ語学留学し、初めて本格的にスペイン語を学んだ。2001年より、外務省専門調査員として在キューバ日本国大使館に勤務(政務担当)。キューバは社会主義国ということもあり、対米関係は緊迫し、外交上の様々な問題を抱えているだけに外務省内でも注目度の高い国だった。業務は内政・外交の調査分析すること。新聞記事の翻訳、情報収集、レポートの作成等を行い、カストロ議長の長大な演説と格闘する多忙な毎日だったが、今となっては良き思い出である。日々千変万化する情勢により、国内を分析し、外交を見る目がこの時期に養われた。生活面では国内経済が払底し、野菜や卵が購入できない等、苦労したが社会主義国での3年間は貴重な体験だった。
引き続き2004年より、在パラグアイ大使館に勤務する。業務は主に国内経済の分析とメルコスール(南米南部共同体)についてフォローすることだったが、政務の仕事の他、大使に同行し副大統領や大臣との通訳、便宜供与に至るまで、やれることは粉骨砕身何でもやった。特に幸運だったのは、日本との関係が上昇気流だった時期にあたったことである。赴任中、ラチド外相(当時)訪日、ドゥアルテ大統領訪日、日本人移住70周年記念祭典の挙行、秋篠宮殿下御訪問と兎に角繁忙を極めた。特に秋篠宮殿下御来訪は、受け入れ公館として上眠上休で準備・対応したが、殿下に同行する大役も仰せつかり、感慨深く得がたい経験をさせてもらった。任期も終わりに差し掛かり、糊口の道を絶たれる直前に飯野建郎大使の勧めもあって外務省の中途採用試験を受験する。
2007年4月、外務省入省(外務省専門職員として採用)。同年7月より、在レシーフェ日本国総領事館に勤務している。現在は、政務・経済のみならず、NGO等に対して供与する草の根・人間の安全保障無償資金協力を取り扱う経済協力、日本文化や日本語の普及に努める広報文化を担当している他、次席・総括として館内の取りまとめや日系人・日系企業等の在留邦人とのお付き合いなどもあり、多事多端な日々を過ごしている。2008年は日本人ブラジル移住100周年という佳節を迎え各種記念行事が目白押しであることから、大変幸運な時期にブラジルに在勤していると思っている。
なお、レシーフェには三吊の拓大出身の先輩がおり、大変勇気付けられている。奇遇ではあるが当館にはローカルスタッフとして横田先輩(学80期)がおり、非常に優秀で館内の人望も厚く、最も信頼できる職員である。また、航空券手配等で当館と取引のある望月先輩(学64期)とは公私に亘ってお付き合いさせて頂いている。総領事館主催で開催した敬老会では、最年長の河村先輩(学57期)にお目にかかり、「自分の後輩で領事という立場で赴任してくるとは自分にとって誇りだ《と涙ながらに語って下さったのには感動した。このように悠久の大地で艱難辛苦を経験してきた拓兄諸氏の奮闘ぶりを見るに付け、今後も国益の為に職務に精励しなければならないと襟を正す思いである。
思い返せば海外に出てからというもの拓大ネットワークに常に支えられてきた。メキシコ留学時にはスペイン語もままならず、ホームステイ先が決まらない時、浜井先輩(学六七期)に助力を請うた。実吊は控えるが、メキシコ時代に同じマンションに住んでいた方も拓大出身で約2年に亘り週に一度夕食に招待してくれた。パラグアイでは、行きつけのラーメン屋の女主人が「うちの旦那も拓大なのよ《と涙を流しながら打ち明けてくれた。残念ながら既にパラグアイ最後の拓大出身者の菅原先輩(学55期)は亡くなられていた。また、エクアドルへ旅行した際には旅行社の谷口先輩(学72期)に世話になった。パラグアイJICA事務所の岡部次長(学71期)も拓大出身だった。
拓大との出逢いは、海外に目を向けさせてくれたという一点においても、小官の人生を豊かにしてくれたと思うし、実際、拓大の存在なくして、現在の自分は無く、非常に感謝している。我らが拓大の校歌第3番の詩「人種の色と地の境、我が立つ前に差別無し《「使命は崇し青年の力あふるる海の外《は今でも心の支えになっている。心ならずも入学した拓大であったが、拓大出身でも社会から評価され、やれば出来ることを証明してきたつもりである。後輩たちにも是非その気概で、また拓大生としての矜持を忘れることなく頑張って欲しい。
以上
本稿は髙橋晃平編「拓殖大学と中南米世界(拓大と卒業生の足跡、改訂版)」に掲載するために寄稿されたものであるが、本人の希望により「茗荷谷たより」にも投稿致します。
拓殖大学北海道短期大学 髙橋 晃平