海外で活躍する卒業生 第1話 ブラジル/ 57期 河村 利

   2014/07/02

海外で活躍する卒業生 第1話

河村 利(かわむら はやし)

三重県 県立鳥羽高 商・経 学57(昭和34年)卒。柔道・空手教師、道場経営。


一九六〇年四月一二日、ルイス号でサントス港に上陸。当初はサン・パウロ市で柔道教師を勤めていたが、一九六五年、ペルナンブーコ州レシーフェ市内に柔道場「ASSClACAO KAWAMURA《を設立し柔道の指導に当たって現在に至る。拓大時代は柔道部に所属していた。
拓大学友会ノルデステ支部相談役。拓大を志願した理由は柔道をするため。当時の総長は矢部貞治先生。柔道部で押忍の精神を学び柔道に打ち込んだ。在学中からブラジルに移住しようと思っていた。ブラジルでのんびりとした生活をしたかった。拓大を卒業するときから永住しようと決めていた。
ブラジルに着き、はじめは農業、柔道教師、その後柔道・空手道場を経営している傍らペルナンブーコ軍警大学教授を務めていた。拓大に期待することは押忍の精神、建学の精神を大切に、留学生を多くし、発展してもらいたい。

質実剛健の吊門校拓大に入学できて非常にうれしかった。柔道部で四年間過ごし、一九六〇年ブラジル移住しました。移住を決意したのは学生時代は親のスネかじりだったため、未知の地で自分の力でどこまで生きられるか、生か死か勝負してみたかったからです。着伯後、数ヵ月して日本から持参した荷物を全部何者かに盗まれてしまいまいた。しかし、他の新来青年と比べ自分は柔道の有段者だったし、この頃からブラジルで柔道ブームが始まったおかげで、柔道教師として働くことが出来たので随分助かりました。
その後リオ・デ・ジャネイロに行き柔道教師として過ごしていましたが、一九六三年東北伯のパライーバ州政府より柔道教師として招待されました。そのため州都ジョアン・ペッソアに移り住み柔道を教えることとなりました。当時の東北伯では柔道を誰も見たことなく大変珍しがられたものです。柔道が強いことを証明するために随分と他流試合もやりましたが、運よく一度も負けることなく、当地において柔道の普及に力を注ぐことができました。

そのうち隣のぺルナンブーコ州のレシーフェ市から噂さを聞いたのか、あちらこちらクラブ、学校などから柔道教師として招かれるようになったため、レシーフェに引っ越しました。一九六七年、当市に河村道場を開き、柔道と空手の看板を掲げ教えはじめました。 空手を教えるについては拓大の諸先輩方より絶大な援助を受けました。このことは生涯忘れることは出来ませんし、大変有り難く思っております。この頃、時々拓大の放浪学生がふらっとやって来て我が家に居候したものです。
一九七三年ペルナンブーコ州軍警察学校で護身術を教えはじめ、定年退職する三二年間当地で適用できる護身の技を自分なりに完成出来たと思います。警察時代の経験を生かし、現在も河村道場で市民や空手、柔道の先生達にも護身術を教えています。これからももっと技の研究をして治安の悪い当地で市民の生命を悪人どもから守るため、おおいに役に立ちたいと思っています。着伯以来四八年間、生きてこられたことを自分で紊得出来、自分は真の渡伯を達成できた勝者であると思っています。将来は町外れの海水浴場に家を買い冷えたビールを飲みながら魚つりでもしてのんびりと余生をすごそうと考えております。
振り返ってみますと、サン・パウロ、リオ在住時代が一番生活に苦しい時期でしたが、同期の田中康隆拓兄とともに励まし会い頑張ったのが我が人生の土台となったと思います、拓大出身であることに誇りを持ち。感謝しています。

押忍

本稿は髙橋晃平編「拓殖大学と中南米世界(拓大と卒業生の足跡、改訂版)」に掲載するために寄稿されたものであるが、本人の希望により「茗荷谷たより」にも投稿致します。

拓殖大学北海道短期大学 髙橋 晃平