海外で活躍する卒業生 第3話 スイス/ 65期 稲木 豊彦

   2014/06/24

稲木 豊彦(いなき とよひこ)

今回は世界を放浪する旅をこよなく愛し、ヨーロッパに定住した稲木 豊彦さんを紹介いたします。
稲木さんは現在定年退職をむかえ、卒業後の歩みを「我が青春の冒険旅行」という自分史として出版するために執筆活動中です。内容としましては、旅の始まりとなる「東南アジア編」の原稿を頂いており、その第一章を掲載しますのでご覧ください。

<補足>

第二章 マレー半島を無銭旅行で縦断の始まり

その後、南タイでの日立による水力発電工事現場、タイとビルマ国境地帯スパイ容疑で拘留、カルカッタの道路わきの死体とベナレスのガンジス川河口での死体焼却、
シッキム王国王宮への招待、ネパールでのアルコール飲み比べ、ネパール山中200キロのトレッキング、高山病と小児科、ネパールの蛍、印度とパキスタンの紛争、パキスタンへのビザは首都カラチで、コレラ発生の現場で、鉄砲水の遭遇、イラン兵隊と銃。無国籍地帯・緩衝地帯。下痢と赤痢。テヘランでの下痢対策。トルコ黒海トラブゾンにてのレスリング試合、アジア側のウシュクダラ、イスタンブールからのヨーロッパ。

第三章 再びヒッチハイクの始まりギリシャへ

ギリシャはヨーロッパであった。ヨーロッパ各国のヒッチハイク、ドイツ&ヂュセルドルフでのユースホステルでの深夜ドロボー捕獲。
北アフリカ。。。再びヨーロッパへ、アルバイトと言語。
3年後中古車でドイツから中近東を再び通過インドまで走破。東南アジアから帰国の途までアメリカ統治の沖縄へそして懐かしい祖国日本へ。。。
その2年後再びヨーロッパへ戻り2007年現在も仕事と休暇で時々東南アジアから中南米、更にヨーロッパ各国を車で回っており、健康な現在行ける所へはマダマダ足を運ぶ予定である。


我が青春の冒険旅行-東南アジア編

稲木豊彦 (65期卒)

序文

海外で活躍する卒業生 第3話①団塊の世代と言われ始めた昨今、小生拓大卒業してから早40年は過ぎ今現在日本から遠くはなれたヨーロッパに定住して既に38余年、我が青春時代の冒険を時々思い出しては懐かしむ年になりつつある。恐らく今現在の拓大生とはかけ離れた人生を送ってきたそれらの記憶は年々忘却の彼方へ過ぎ去って行く中でこの度忘れないうちに書き残して置きたく筆を取りました。とかく人は年齢とともに過去の出来事を忘れがちになるその前に記憶が確かな内に一筆と前々から思っていたがいざ過去40年も前の出来事を記憶をたどって書くという事はそう簡単ではない、しかしながら若き時の刺激が強いと結構忘れえない物で今でも鮮明に記憶している事がある。
あれは拓大出てから1年目の冬のある日、横浜からフランス郵船でのシンガポールで途中下船の出航が我が青春の冒険旅行の始まりであった。
今それらの記憶をたどり当時の懐かしい日記を見ながらスイスの自宅で筆を取ろうとしている。あれは未だ23歳の若かりし頃今それらの出来事を思い出すと大変危険を伴う様な冒険旅行でもあった。人生にはある程度の冒険が必要、<冒険>それはのるかそるかの仕事への情熱と決断力、独立して企業家としての決断も人生における大きな冒険である。人それぞれ仕事にも恋愛にも出会いとチャンスがある其の機会を逃さない事が大切と思う。今が其の時期だと思ったならば努力し目的に向かって一直線に進むたとえその結果が成功とは言えなくそれに向かって全力投球努力した事が後から己の人生に其の時の経験が良い結果として報われる事を長い冒険旅行の経験から悟った。悟った等と書けばおこごましいが<冒険の定義>とか<青春の定義>とかは、人それぞれ異なる感性と人生があるのでこれが冒険とかは言いがたい。年取りながら青春を謳歌している人もヨーロッパには多い。日本にもその様な人も最近多くなってきた。定年後の人生を謳歌していると思えば今だに人生における冒険の最中とかそれ自体見出せない人もいる。しかし日本に居ても人それぞれ冒険は出来るのであるが人によってそれが<冒険>なのかどうかはその人の判断に委ねる。何もボルネオのジャングルでの冒険、ネパールの人跡未踏の登山だけが冒険では無いのである。人との出会いと結びつき物事への対処に自信を持って決断その時々の信念を持って対応そこから何か喜びと興味とを発見できると己の短い人生に生きる気力と励み、特に若い時の拓大生の持つ若き血が煮えたぎる情熱の炎、物事へのチャレンジ新たな人生への<冒険>即ち個々の経験が今後に生きる時がきっとある。あくなき探究心と希望を持って冒険にチャレンジ。昔、豊田学長の教訓で<悟ると言う事は何も山の中で悟ら無くとも都会でも悟れる>と言う言葉をふと思い出す。恐らくその心は己の判断を見極めると言うことかもしれない。そこから新たな発見と喜びがある。と自分は解釈したものです。

第一章

海外で活躍する卒業生 第3話②1968年1月30日横浜。第二埠頭より出航夜18時30分。薄暗くなり始めた一月末の今だ冬の季節から抜けきれない海からの寒風吹く横浜埠頭へ見送りに来てくれた家族、大学の友人達に見送られて生れて始めての海外への船出。往復3ヶ月の旅行予定が何と3年の長くに渡り世界旅行するとは当時の自分は全く考えてもいなかった。3ヶ月の費用として400ドル<144000円>当時は外貨為替法の為持ち出し制限額が500ドルまでで当時の1ドルは360円換算であった其の他日本円で10万円がそれが旅行の総ての金額であった。とどのつまりこの金額でヨーロッパまで入った事になる。ドイツに着いた時は残りは未だ50ドルも有ったと言うか残り50ドルにも満たなかったと言うべきか。今から考えるとどうしてこんな少ない金額でヨーロッパまで来られたか不思議でもあるが旅行結果からすれば貧乏旅行であった。旅行当初は3ヶ月で帰るはずの旅行であったから貧乏旅行にはならなかったはず、しかし旅行が長引くにつれ必然的に貧乏旅行になった結論的にはそうなるが当時は貧乏旅行とは思っていなかった結構それでも見るもの聞く物珍しく一日にかかる旅行費用と行動範囲と目的はそれなりに把握して行動していたと思う。それが延びに伸びヨーロッパまで足を伸ばした経過はタイで知り合った当時のヨーロッパから来ていたヒィピーと呼ばれていた連中からの情報で彼らはシルクロードを陸路でたどって来た連中であった。其の逆をつまり陸路シルクロードを遡ってヨーロッパへ回れるかと言う考えに漠然ながら考え始めたその結果タイから帰国予定を変更し行動に移してしまった。それが我が人生を大きく変えた。
人との出会いで考えも変わり己の人生にも大きく作用する事も経験上大いにあるのである。その例が下記に書くタイで起こった出来事である。タイへたどり着く前日本で約1年間就職して渡航資金を貯めていた。ビザも自分で各国大使館を回り所得、フランス郵船で横浜-シンガポールへの3ヶ月往復切符を買う。船旅にしたのは当時航空料金は高く自分には若さと時間だけは豊富有ったので安い船での旅行にしたのが主な理由である。今考えると船旅での冒険旅行は今の空での旅行とは大きく違い結果的には良かった。点と点の旅行ではなく線と線の旅行で当時は東南アジアではベトナム戦争最中であったが、今ほぼ毎日新聞紙上騒いでいる中近東でのテロ活動は無く旅行においてはシンガポールに上陸した後マレー半島の先端シンガポール島からジョホールバールを筆頭にタイ各地ラオス、カンボジア方面ヒッチハイクで縦断。途中知り合った多くの老若男女人々の友情と好意には感謝。人間は何処でも話せば分かり合えることを学んだ。
体力と気力は拓大譲りでありただ盗難には特に気を使った。旅では多くの出会いと別れその
旅の最中デリーで出会ったオーストラリア人のピィーター(ジャーナリスト専攻の学生)イスタンブールまで同行とニューヨーク出身のベトナム帰還兵ボブとタイの各地での出会。
彼からも当時のべトナム戦争の悲惨さを聞く、当時日本ではベトナム戦争反対の機運が広がり始めたころ自分は日本を出てしまったが安保反対の全学連闘争もヨーロッパはドイツで始めて聞いた次第。(当時ヂュセルドルフ近郊のドイツ語学校にいる時にソビエトがポーランドのワルシャワ進攻の時で当時ドイツでは又戦争になるかと連日大きく戦況を報じている最中であった。)
話は前後するが旅行する前、学生時代あるホテルでアルバイトしていた事があった当時はベトナム戦争への関心が薄かったがベトナムからの休暇のアメリカ兵がホテルに多く泊り込んでいた、当時のベトナム休暇兵にベトナムの事聞いても皆一様に口を開かなかった。しかしバンコックで知り合った帰還兵ボブとの出会いでベトナム戦争への関心が一気に高まった。彼は無事に帰還出来た兵隊だから話してくれたがすでに当時のベトナムは泥沼に入って抜けるに抜けない状態であった。自分が学生時代に東京で会ったベトナム休暇兵の内恐らくすでに何人もの兵隊がそのときは亡くなっていたはずであった。当時の休暇での兵隊は皆一様に騒いではいたが心の中はいつ死に直面するかの恐怖であっただろう。東京での一時の遊興でベトナム戦争における戦闘と殺戮。自分とほぼ同世代の彼らがベトナムで戦闘体験を経験した生と死からの恐怖を東京での一時の休暇では忘れられるような休みではなかったはず、ベトナムでの戦闘で心身共に全く自由が無かった兵隊はいつ死ぬかが頭から離れない恐怖であっただろうと推測する。日本の平和を見て彼らはどう感じたか、平和になれていた当時の自分はアメリカ兵の心の中までは考えにも及びもしなかった。その後数年経って自分もタイとビルマの国境トライアングル地帯で味わったスパイ容疑での取調べにおける死への恐怖を体験した。

話を戻そう、船の船尾辺りかドラがジャン、ジャンと鳴り渡り出航のドラが鳴り響く中で見送りの人々が船から下船、見送りの人々、親類友人一同は桟橋から色とりどりのお別れのテープが投げられその一端が船出の人の手に握られかつ一方のテープが桟橋から船が離れる度にテープが1本2本と切れる、見送りの人々は手を振りあたかもそれは一生の別れの様でもあった。感傷に耽って涙ぐむ人々と手にはハンケチを振りながら泣く人々を桟橋に残して一路船はゆっくりと香港に向け出航、日本での思いが胸中に駆け巡り胸が締め付けられた。
朝方母親が赤飯たいて見送ってくれた事が今更ながら胸につかえる。あの時の赤飯実は食べられずに出てきた、高ぶる神経性の下痢で極度の緊張から来る物と考えられた。
生まれて始めての外地への旅立ちに我が思いは既に遠く南方に飛んでいた。
戦中親兄弟は南方、満州へと強制的に動員されたのとは違い。自ずから南方への旅立ちそれも大義名分を持って出かけたのではないが、日本の貿易が東南アジア各国にどれだけの影響力があったかそれを自分の目で見たかった。単なる思い付き動機でも会ったが自分の中で日本以外の国を自分の目で見届けたかった強い思いがあった。当時は外為替法の為500ドルしか海外に持ち出せなかった。そんな時代の中での旅立ちでもあったから旅行会社を通さず経済的に全て自分で各国大使館めぐりビザを取り寄せた。(今はビザ殆ど必要ではないが当時は行く先々の国々のビザは前もって取る事が必要不可欠であった。)

夕闇に横浜を出たフランス郵船は翌31日はゆれに揺れた、旅行もこれから先が思いやられる思いであった。皆船酔いで至るところで吐いていた,自分もご多分に漏れず、食べては吐いた立って歩くのが難しいくらいであったトイレまで行くのに間に合わなく甲板脇の廊下で吐いた、2月1日は食べてはすぐ丸一日ベットに横になっていたこれが奏して船が揺らいでも酔わなくなった、毎晩映画とかダンスパーチィが開かれていたが日を増すごとに来る人が減ってきた、船酔いで寝込んでいる人が多い中自分は既に船酔いにならず食べては昼はプールで泳ぎ夜は映画で船旅をエンジョイし始めていた。外人を見つけると辺りかまわず話しかけた、通じようが通じまいがこれは今でも自分の得意とするところ、何処の国へ行っても気楽に英語で話せた誰彼と関係なく、相手も英語が解る人ばかりではない外人も多い、国が違えば言語も違う同じ英語でもインド人の発する英語は解らない発音で不明な単語が多い。(最も既に自分も日本の領海過ぎれば外人に成っていた筈。生れて始めて外人になった)
日本出る前の数ヶ月前NHKのTVでフランス語の番組<フランソワ・モレシャンのフランス語>を取っていたそのフランス語をためすべくベトナム人船員と話す、(ベトナムはフランスの植民地であった為フランス語が話せるとの事、今は英語が主流でフランス語は余通じないとの事)早速躊躇無く昼の食事時にワインを頼んだが持ってきたのは<酢>であった、我がフランス語も当てにならないと当時思った今思うにフランス語でワインVIN<ヴェン>と言うところをVinaigre酢ビネーを持ってきた次第。当然酢は飲めないので自分のフランス語の発音未熟をつくずく感じた。さて、船は沖縄沖合い真っ黒な海の中を進んでいた。日本出た時は寒かったがこの辺まで来ると空気は湿気を帯びて生あたたかく海の色は青いと思っていたが真っ黒いいかにこの辺が深いかそしてこの辺の海の色がこんなにも次から次へと変わり違う模様は生れて始めての感動でもあった(今は飛行機で空港から空港へ飛びつまり点と点である、直ぐにその国へ行けるが感動は少ない)船旅はイルカが船と隣りあわせで泳いでいる様は生れて初めて見た,その数が数十頭のイルカは船の切先を飛び跳ねまるで船がイルカに導かれていくように一路香港へと向かう、沖縄を通過し台湾沖から東シナ海に入ると海の色が乳白色になり中国の揚子江から流れ出る水が黄色ががかった色で海の色が更に乳黄色に変わる様が見えた。この辺は揚子江と黒潮と混じる海の交差路でもある、それで海面の色が黒と白とに更に黄色く交わり変わるのである。その様子は筆にては書き表すにはわかりにくいであろう情景であった。

既に横浜を出てから3日後に香港に近くになると南国特有の生暖かい空気と共に湿気が多くなり海面上に流れて来る香りが変わった、それが香港の香り、なるほど香る港とは多分ここから来たのかと思う。香港の港付近は数十艘のジャンクが黄色い帆を張り魚を取っている様子、帆船が黄海上で魚を取っていた。これは恐らく今は見られない風景ではなかろうか,
香港は東京に比べるとさすがに南国の湿気の多い暖かい気候であったがこれが又我が旅行中の最初の生死を分ける事故に遭遇するとは思ってもいなかった香港に停泊して乗客は税関を通過した後皆それぞれ行きたい方向へ向かった、(船客の多くはマルセーユまで行く人々)自分は香港ではビクトリアピークへ登るのにイギリスが作った登山ケーブルカーを使わず歩いて登山。登る最中山の頂上付近の周りの木々は苔でまるで衣を着た仙人のごとく袖が伸びている、山道は香港特有の霧で苔で道がすべるゆるいカーブが続くしばらく登った所から先が全く霧で足元もろくに見えなくなり、かつそこら辺手すりと言うか柵が全く無く曲がり角が霧で見えず自分は当然真っ直ぐに進だ突然そこが崖であった何とあろう事かそこから落ちた、幸いと言うか2メーター下に突起が出ていてそこで止まったので自力で這い上がった。辺りには誰もいないもしあの時崖から落ちていれば次の日の香港の新聞に<日本人青年崖から落ちて死亡>と言う記事が恐らく載ったであろう。最初の危機は突然訪れた。
これが海外で起きた事故の最初の出来事。更に香港停泊3日目にアバデーン迄行くその部落へ行く突然村で喧嘩してた男達に出くわした、またえらい所へ出くわした物でまるで戦場のごとく中国包丁で切り合いその中華包丁を振り回してた男の一人が逃げる方向が何と自分の方へ向かって来た時も驚いた。度えらい所に度に出くわしたものだ。危険を感じて危なく避ける。自分にとって香港の印象は余り良くない。その後5.6回は行っているが当時は英国の植民地であったから当然英語は通じると思っていたがそれほどではなく広東語が公用語であった。言語に関してはこれから行く先々で多くの教訓を得た。その国へ行ったら必ずその国の言葉を少しでも学べと言うことである。これは後で詳しく書くが少しでもその国の言葉と文化を理解する事がアフガニスタンとイランの国境でその国の言葉を話し危なく命拾いして大いに助かった。今でも当時使った言語断片的に覚えているのはその時の印象が強かった為だと考える。
料理に関してと言うよりその国の食文化では香港の街中で昼食にたまたま寄ったレストランで食べた料理はうまかった事とかつ安かった事が記憶に残っている。最も食べられない物を注文したのもここ香港であった、アヒルの首の<から揚げ>はさすがに食べられなかった。聞く所によるとこりこりして旨いそうだがさすが日本では食べた事無かったので遠慮した。金は払ったが後からアレはどうなったかと気なった物である。言葉が解らないと料理の注文もおぼつかない、それからはどの国へ行っても<人が食べているのを見てあれと同じ物と注文した>これは殆ど間違いなくおいしい物を注文できる事が解った。肝心のメニューが理解できないと注文の仕方がわからないばかりかとんでもない物が来てしまう事がある。イランでは誰もいない所では食べている人の料理を見る事が無いから注文できないそれで調理場まで行き<これとこれ>と指差して注文したのを記憶している。イランでも料理は全く違う材料で調理していたがそれなりに味を楽しんだがしかし旨かったと言う食べ物は記憶には少ない。それにしても羊の肉が多かった。特に日本人に向いているのは炭火で焼く羊の串焼き。唐辛子と塩をまぶして焼く簡単な料理だが日本の鳥の串焼きと同じですこぶる美味であった。ピリカラでもっと辛いのが良ければ自分で唐辛子を振り掛ければ良いのである。トルコまでほぼ同じ様な料理に出会った。カブールでは寒いのに驚くそしてホテルのレストランで注文した<羊の肉の炊き込みご飯>、見た目は脂でぎらぎらしたライスに乾燥ブドウと羊の肉の炊き込みうまそうでなかったが食べたら結構うまかった。見た目と全く違うカブールの食事であった。
当時の政治は今より安定していたアフガニスタンへの危険情報は全く無くパキスタンとインドとの国境紛争は元よりあったので気をつけてはいた、今現在にある様なテロは想像もつかなかったが首都のカブールへはパキスタンの国境ペシャワールからカイバー峠を通り首都カブールまで行くことバスで数時間カブールで1週間安宿ホテルに滞在。、現在は内乱状態で危険極まりない地域であるが1968年は無事通過、その3年後ドイツから再び自分で車運転して今現現在危険地帯も無事通過するのもここであったが当時は予想もしなかった。その後ソビエトがアフガニスタン侵攻で今から思えば良い時期に行ったものであると考える。

香港から一路船はフィリッピンのマニラに向かう。ここへは何と今までに6度も仕事を兼ねて来るとは当時は思っても居なかった。1968年当時のフィリッピンへは太平洋戦後19年後に行った次第だが当時のフィリッピンは今も昔も犯罪が頻繁に起きていた。多寡だか3日間しか停泊しなかったが乗船客の一人は最初の日に埠頭で後ろから来た男に腕時計を強奪されたのを目の前で見た。それが30年も経ってから2004年にはマニラのホテルのロビーでショルダーバックと仕事の書類いさいがっさい後ろに居た3人ずれの女に置き引きされるとは思ってもいない出来事が起こった。最近又驚いたのがマニラで走っているおんぼろバスが何と30年前以上昔の都バスで所々日本語の<仁丹>の宣伝文やら他の日本の宣伝広告が読めた。そんなバスが今だにマニラで走っているのには驚いた。ちなみに乗車価格は一区間日本円にして75銭。1円にもなっていなかった。
その3日後船はバンコックへ向かう本来ならサイゴンに向かうはずであったがベトナム戦争の最中でバンコックへ航路変更、夜間船がベトナム沖を通過中船の甲板に上り雨上がりの夕焼けの真っ赤な夜空が次第に夜の暗闇に閉ざされる様子を眺めていた、沖合いの夕闇を感傷に耽りながらベトナム方面を眺めると時々夜空に稲妻の閃光が頻繁に見えるようになる音は全く聞こえなく稲妻の閃光だけが良く見えた。後から考えるとアレはまさしく米軍とベトナム軍との野戦の最中であった事が判明。これから行くタイはどういう国か同じ東南アジアで今正に生死の境を越えつつある兵隊の最後の叫びが閃光として遠く航行中の船で見られるのも複雑な感じになる。今までのノンビリ眺めていた静かな甲板が急に騒がしくなる甲板には少しずつ船客が集まり来て閃光の方へ指差して戦火を眺め皆のため息が聞こえるようであった。時は1968年の2月8日であった。

海外で活躍する卒業生 第3話③バンコックへ近ずくにつれ海面が緑になる。船は気候はモンスーン沿岸の熱帯の椰子の木々がまるでジャングルのように生い茂る所まで来る、更に船は徐々に速度を落し河口真じかに接近し沿岸近く見える所まで来ると白い壁のタイのお寺にダイダイ色と緑色のまだら模様の屋根の尖がっているてっ辺が緑の椰子の木々に囲まれて見え始めた。今までの港とは全く違う香りが漂い始めたこれは後で解ったことだがヤシ油の料理の臭いと判明。この臭いはタイの至る所で嗅ぐ事になる。バンコックでは3日間の停泊。タイでは全く当時英語が通じず自分はタイ語話せなく話が全く通じなく手振り身振りでの街中を見物バスは間違えて遠くまで移動再び戻るのに時間がかかったこれに懲りて、街中の本屋でタイ語―英語の会話本を買う。これがタイ語との付き合いの始まりとは言え全く通じず、会話本の棒読みの読み方ではタイ語の発音は不可能。幾ら話してもタイ人には通じずタイ語の発音は5つあり日本人はみな同じ音にしか聞こえない。当時拓大にタイ語学科は恐らく無かったであろう。マレー&インドネシア語はあったが、今拓大卒の人がどれほど東南アジア方面タイ、マレーシア又はインドネシア、其の他の国々に居るのであろうか。
2005年に車を借りてタイの26県2500キロメーター走破3週間かけて移動各地を見て回る。タイには1968年も今も日本の車が多かった。王宮、遺跡、お寺めぐりと道に迷っていると必ず誰かが来て助けててくれた。タイには親切な人が多い。トイレ探し街で見つからず学校のトイレを借りるこれも手話である。マーケットで一人用の蚊帳を17バーツで買う。これがタイはもとより東南アジア各国ビルマまで重宝する特にビルマの蚊はすごい他の人が蚊に食われていても自分は全く蚊とは縁が無かった。カンチャナブリではかの有名な戦場にかける橋を見たりして夕時になると必ず船にかえった。船に帰れば昼晩飯が出るからである。3食付で往復3万8千円の船賃であった。3日の停泊後船はバンコックから離れ船首を次なる最終下船の港シンガポールをめざして2週間の旅も終わりに近ずく、自分はここで下船しここからの東南アジア各国10週間の旅が始まる。10週間後は再び同じ港シンガポールから横浜へ向け乗船するはずであった。

シンガポールは19年前日本と英国の精鋭部隊による熾烈なる戦いの場所。ここでは詳しくは書かないが戦後シンガポール人更に隣のマレー人は日本人に対してどのような感情を今だに持っているのであろうか多少不安があった。シンガポールの町中に未だ戦争当時の面影が残っていた。隣のマレー,ジョホールバールでも戦の後が至る所にあり銃弾の痕が建物に残り戦後は今だにこの辺一帯に色濃く残って居た。当時の日本は高度成長真っ盛りの最中で1964年アジアでは初めてのオリンピック、地下鉄の拡張工事、上野駅は集団就職の高校生が多く今はその人達が今は団塊の世代になる。今の日本の成長を陰で支えてきたのも彼らである。
シンガポールは英国の植民地であったから当然英語が良く通じた。しかし香港はと言うと、
香港はどうしてシンガポールみたいに同じ英国の植民地でありながらどうして英語が良く通じなかったのであろうかかの地では広東語が良く使われている台湾へ行った時はマンダリンで広東語は通じない。同じアジアとは言え言語が複雑に入り組み一度隣の国へ行くと全く通じない。日本では考えられなかった、やはり現地へ行かないと判らない事が多い。政治、経済どれとっても当時のアジアにおける日本の影響がすでに現れていた。しかし一度マレーのジョホールバールに足を踏み込んで驚いたがタクシーが総てベンツであった。
ましてジョホールバールの沿岸を歩いていたら突如日本語でそれも軍隊用語で声をかけられた<貴様日本人か?>初老のマレー人である。聞く所によれば日本軍に従軍してたとかで終戦当時は日本語を公に話せないとかで理由は日本軍に味方したというわけで地元の人からは白い目で見られていたそうです。しかし自分には全く聴き覚えの無い日本の軍隊用語ではあったが<飯食うか、来い>とえば聞こえが悪いが好意的であった。当時旅行中東南アジアでは至る所で同じ様な話を聞く、ネパール山中それも随分奥地でもネパールのグルカ兵が日本兵をビルマのインパールで狙撃それも随分殺したと得意げに言う話を聞いた時は複雑な気持ちと共にドキとしたものです。彼は英国軍の兵として雇われたそうでグルカ兵は香港の英国治安維持軍に雇われたそうです。戦後は未だそれぞれの国の元兵隊達の頭に忘れようも無く深く刻み込まれているようでした。今の若い人たちには解らない話かもしれません。
当時東南アジア各地で日本の戦前戦中の話が出ると良いことも悪い事も皆当時そこに居会わせた自分にその当時の話をぶつける相手になった。あたかも自分が当時日本の兵隊であったように頭をたれて聞いていた。反論しても始まらない。日本が始めた戦で多くの家族が失ったと聞くとその場にいたたまれなくなったことも多々あった。これが東南アジアにおけるシンガポールでの旅の始まり。これが3年もの長くヨーロッパまでへの道のりの第一歩であったとは上陸して間も無い自分には想像も出来なかった。ほぼ全工程陸路でのシルクロードの旅の始まり。マルコポーロも通過したであろうシルクロードも彼も見たであろう遺跡も見て周った。恐らくマルコポーロの時代と1968年当時と長い歳月の隔たりははあったであろうが戦乱のアフガ二スタン、イランも現在TVで毎日のように破壊と戦闘殺戮のかの国へは2度も無事通過してヨーロッパへそしてアフリカヘそしてヨーロッパから中古車を運転再び東南アジアへ再び帰る事が出来インドで長い間愛用した赤いフォルクスワーゲン車売り台湾経由で船で夕日に輝く東シナ海を通過し沖縄返還前の米ドルが今だ幅を効かした当時の沖縄に渡り鹿児島から九州に上陸帰国出来た自分は幸運だったと言えるかもしれない。
人間やれば出来るしかし若かりし時の冒険は未だ続く。