「太平洋之塔」建立40周年記念祭と慰霊祭に参加して

   2014/05/04

太平洋之塔①

昨年の秋、私は学部67期の河田 昌一郎 氏より一通の書信をいただきました。それは標記慰霊祭の案内でありました。

サイパン島といえば、太平洋戦争当時の日本が「絶対国防圏」と位置づけ、本土防衛の生命線となっておりました。それだけに日本軍守備隊と米軍との間の戦いは熾烈を極め、多数の民間人を巻き込んでの玉砕戦は悲惨の極みでありました。特に、米軍に追い詰められた日本人婦女子が身を投げた断崖絶壁「バンザイ・クリフ」の名は、戦争の悲しみを象徴する場所として余りにも有名であります。戦没による多くの犠牲者を弔い慰霊することは、平和な時代に生かされている我々 時代の後継者として当然の務めであるものと思います。崇高な理念と志しにもとづく遺骨収集にはじまり、その慰霊の形として建立された「太平洋之塔」にまつわる定期的慰霊行事が、今回をもって最後になるやも知れぬ旨の文言に触発され、私は今回初めて慰霊団に参加させていただきました。

参加者は成田空港・関西空港の発着者を合わせて総勢47名、顔ぶれは拓大OBを主体として、そのご家族・友人・知人と多彩でありました。慰霊祭当日は快晴に恵まれ、まさに祭礼びよりでありました。こののどかで平和な常夏の島で、わずか66年前には凄惨な戦いが繰り広げられ、目の前の断崖から多くの日本人が身を投げて自らの命を絶ったとは、とても信じられないような景観でありました。午前10時から始められた記念祭及び慰霊祭には、日本政府の在サイパン領事・樋口 勉 氏をはじめ現地神父並びに現地関係者も多数参列し、主催者代表並びに来賓の挨拶 等が行なわれ、式典は厳粛な雰囲気のなかで進められました。読経のなか、参列者は順次 祭壇に線香を供え、それぞれの思いを胸に敬虔な祈りを捧げました。最後に慰霊団長・河田 氏が閉式の挨拶を行ない、鎮魂のため祭壇の花輪を勢いよく海中へ投じました。慰霊祭終了後は、日本からの参加者全員で島内観光を行ない、夕刻からは場所を海岸のバーベキュー会場に移し、地元の方々のお世話により午後4時からバーベキュー形式の交流会が行なわれました。

紺碧の海に白い砂、澄んだ空気の南海の島・サイパンの浜辺での交流会は、申し分のない会場設定でありました。夕刻のたそがれ時、日差しの強かった太陽が大海原のかなたに刻々と沈んでいく様は、周辺の空を茜色に染め圧巻でありました。これこそまさに南の島の楽園といったふぜいであります。交流会参加者は慰霊という共通目的と、ほとんどの方が拓大学友であるという共通意識のもとに、会場はなごやかな雰囲気につつまれ、それに加えて来賓の樋口領事並びに現地世話人も入いり、にぎやかなものでありました。交流会では時の経つのも忘れさせ、話が尽きないところでありましたが予定の時間も到来したので、交流会を締めるにあたり誰言うとなく声が上がり、全員輪になって拓大伝統の閉会スタイルに移りました。リーダーの力強い音頭のもと、蒙古放浪歌など海外雄飛に因んだ幾つかの歌を声高らかに唱和し、最後にカチマス踊り・押忍三唱(上野 四国連合会長)で会を締めくくりました。この瞬間はみんな学生時代の気分に立ち返り、心がひとつになったような感じでありました。

40年もの前に慰霊の塔を建立し、定期的に慰霊祭を実施されてこられた関係者の方々には、その真摯で敬虔な行ないに心からの敬意を表するものであります。また、サイパン滞在中の式典等いろいろな集まりで、それぞれにリーダー・シップを発揮され行事をスムーズに進行されました方々につきましては、いちいちお名前を披露すべきところではございますが、紙面の都合上それが出来なかったことを学友のよしみに免じてご了承願います。それとともに、本件慰霊団の参加者すべての方々に何かとお世話になりましたことを心から御礼申し上げます。

記、学62期・酒井 宏治

太平洋之塔②太平洋之塔③