拓殖大学アーカイブス物語 昭和20年 東部17部隊 特甲幹採用検査場

   2014/05/04

篠崎義人①

専門部20期・学部47期 篠崎義人

この通達書(別添=略)は、東部17部隊入隊後に自宅に配達されたため、演習時の行軍中、偶然に出会った山口さんに依頼して自宅に行き、母に部隊に届けてくれるよう連絡してもらった。その後、ある夕刻「飯上げ」の使役中、衛兵から連絡あり、衛門に母が持参してくれ危うく試験に間に合ったという事情がある。歴史的「物証」である。[注=昭和20年6月、東京師管区司令部から陸軍特別甲種幹部候補生採用試験に出頭すべし、というもの。]

当時「一高前」という井の頭線の駅があった(現・駒場東大前)。北に越え、一直線に伸びた道を行進中の出来事、最後尾を歩いていたら傍らの道をモンペを履いた老婦人が並行して歩いていた。ふと見ると母の知人の山口さんではないか。全く驚いた。山口さんは箱根宮ノ下の富士屋ホテルのオーナー山口さんだった。「アッ山口さんのおば様ではないですか?」「はい」「義人さんか?」「そうです」「あら、お星は?」「ひとつ」と返事すると「あらお可哀そう」というやりとりがあった。それを聞いていた引率の木村候補生が「おれ達はこの先の校門の前で小休止するから、ゆっくり話してよいぞ」と言ってくれた。彼は文理大(現筑波大)の学生だったので、拓大の私に好意を持ってくれて、その後も特甲幹の試験のとき一装用の軍靴(編上靴)を貸してくれて恐縮したのを思い出す。口では同じ都電の停留所を使っていたため「ずいぶんお前達にはやられたよ」などと言っていたが、教育係の助手として大変世話になった。軍隊の良い思い出に残っている人だ。

7月11~12日、麻布中学校で試験は予定通り行われた。当時部隊で内務班長の小高兵長が前年度の特甲幹試験の補助要員だったとかで、試験は体格検査を通れば大丈夫、あとは事前に調査をしてあるから、ほとんど員数で(内定者)と話があったので気が楽だった。しかし身体検査のときは、全員ふんどし一丁なので、地方人か軍人か識別できないので一列側面縦隊に並んで1人ずつ軍医官の判定を受けに行き、不動の姿勢を取る。私の番になったとき、医官の隣に立っていた兵隊(上等兵の階級章を付けていたが)衛生兵の兵種識別章を付けてない。現在でも不明の人が突然、「その者は現役兵であります。ちょうど1期の検閲前で一番消耗しているときであります。若いのですぐ回復するでしょう」と言ってくれた。軍医は「おっそうか。合格」と力強く判定してくれた。一般人・軍人を問わず、拓大生の群だけの区分だったので多分、先輩か何かであったと想像しています。きずなは強かったです。その後合格者のみ翌日の口頭試問に臨みました。当日は2人ずつで大佐の試験官と大尉の試験官がいて、大佐の質問を受けましたが、なんと「戦闘間分隊長の取るべき処置は?」と問われました。隣の学生は「分かりません」と大声で言った。大佐は「よし」と言い、次に私の方に向かって同じ質問をしました。何か言わなければいけないのかなと思い「攻撃目標の完全把握と部下の掌握であります」と答えたところ、大佐は大声で「そんなことが操典(注=歩兵操典)に書いてあるか!」と怒鳴り、これはまずいと落胆していると、大尉の試験官が苦笑いしながら「君、大学から身上書が届いてないぞ。すぐ連絡して、ここまで持ってくるように」と笑いながら言ってくれました。帰隊後日直士官に申告のとき、そのむね報告すると、外出証明書を書いてくれて大学へ出張を命ぜられたのです。桑木見習士官は立教の学生で、非常に好意的でした。拓殖の”植”を間違えている。[注=別添は中隊長の外出証明書。当時二個中隊編成で「ま」隊は輓馬隊で「は」隊は自動車隊だった。]

証明書[注=外出証明書は6月2日09時~18時、小石川区茗荷谷町拓植大学、理由事務連絡、東部第17部隊]にある桑木見習士官は、前の第一師団長桑木崇明閣下の縁辺で、ご子息かも知れませんでしたが、質問を差し控えたので分かりません。桑木閣下なら父の陸士16期(佐官で早世)同期生で、兄(熊本の独立山砲兵第2連隊付の大尉で日華事変の湖南省桂林作戦に戦没、九段に眠る)の任官のとき祝状を送ってくれた人である。この日は渋谷から大塚までゆき、都電で拓大前で下車、大学の方へ進んでいくと焼野原で今の茗荷谷駅辺は瓦礫の山で、電信柱がブスブスと燃えていた。それを利用して煙草(ほまれ)に火を付けたのを覚えている。まだ焼けトタンの下に貞静学園の女子学生(?)の遺体があった。悲惨なものでした。大学は辛うじて残っており、身上書を発行してもらい、麻布中学の試験場に届けたのも記憶している。[注=筆者の思い違い?と思われる。隣の帝国女子専門学校のことではないか。ただし、帝国女専(現・相模女子大)の被災は4月13日である。学友会百年誌「百代の過客」264ページ参照]

これが復員のとき渡された従軍証明書(別添=略)である。このとき残留させられて久里浜の復員船到着港の使役に従事したものもいる。復員兵の手前、上等兵の階級章を付けたとのこと[注=復員証明書は9月4日付]。幸い私は1回目で復員できたが、復員式のとき、連隊長が壇上で軍刀を杖につき、「本日お前たちに支給した新品の軍服その他は”再度のお召しがあるとき”着用してくるものだから大事に保管しておけ」と絶叫したので、びっくりしたのを鮮明に記憶している。今だから噴飯ものだが、そのときは落胆したものだ。

総じて拓大生は好意的に受け入れてくれました。特に小隊長の成島見習士官は、拓大ファンで夜の軍歌演習のあと、「蒙古放浪歌を唄え」と名ざしで命令されました。本人は商業学校出身でしたが、友人は拓大生が多く懐かしく思っていたのでしょう。この人は終戦後、まだ復員しないころ、アパート探しに下北沢辺りに行きたいので私に私服を着せて一緒に偵察に行ってくれなど頼む程でした。それで夏襦袢(じゅばん)に軍袴(ぐんこ)をつけて隣の民家にゆきピッケ帽を借り2人で出掛けたものです。まだ終戦直後でアパートも完備されてなく失敗したのを覚えています。

(終)

ああ弟よ 君を哭く 元陸将補・篠崎嘉宏のこと

(承前)学友会井上功副会長さま―さて、その折に(09年の2047会)老生の「言わずもがな」の話をお耳に止められ、弟について書くようにとのご指示でしたが、本人も陸幕(陸上自衛隊幕僚監部)二部に在任中から、あまり公務のことを話したがらず(注=二部は情報)兄と弟の関係で杯を酌み交わすくらいでした。別添の通り任地も遠いため、上京した時は、いつも世間話に終わったことなど今になってみると残念でした。

こんなに早く逝ってしまうとは思いもよらなかったこと。生前(2009年8月1日没)に、当時「茗荷谷たより」編集委員だった宮澤氏に取材してもらっていたら(実際に依頼したことも)実りあったと思います。かえすがえすも残念。極寒まぶたも凍る北海道の果てから、灼熱タイ国バンコクまで、身を粉にして働いたわけですから、いろいろ思い出話もあったでしょう。

中でもタイ日本大使館在任中は、各国武官団の団長だったし、世界各国の武官との交遊などおもしろい話が聞けたはずです。彼は拓大人なので母校からタイに来る学友の面倒をみたと申しておりました。

中曽根大勲位先生(注=拓大名誉総長)のお供や、宮様と王様との謁見の通訳をして冷や汗をかいたそうです。この宮様は元軍人だったため、今の自衛官の駐在武官(注=正式には防衛駐在官)のユニホームを見て、その存在とスタイルとにびっくりなさっていたとか・・・も。

1972(昭和47)年ころの大使館講堂で撮った私ども兄弟の写真を同封します。38年も若い頃の小生は旅行の途次、立ち寄った時でした。

2047会 篠崎義人(東京都豊島区南長崎)

▽故篠崎嘉宏氏経歴 旧東京府立14中・都立石神井中学校(現・都立石神井高)首席卒業で戦後拓大予科(当時紅陵大学)入学~1951(昭和26)卒の49期生。陸上自衛隊に入隊してエリートコースを進む。1955(昭和30)年1月 特別幹部学生(3尉)として久留米幹部候補生学校入校―第1普通科連隊(群馬県新町)~第3普連(名寄市)1961(昭和36)第2管区総監部(旭川市)~1965幹部学校(旧陸大=指揮幕僚課程・3佐)~第17普連(山口市)1968(昭43)陸幕2部情報班(東京・市ケ谷)2佐~72外務事務官=防衛駐在官1佐バンコク兼ラオス~1976(昭和51)第33普通科連隊長(三重県久居市)~1978(昭和53)第4師団幕僚長(福岡県春日市)~1979(昭54)幹部学校総務部長(市ケ谷)~1980(昭55)航空学校副校長(三重県明野=陸将補)~1981(昭56)第12師団副師団長(群馬県相馬原)~1983(昭58)第4師団付~7月1日退官▽1998(平成10)まで福岡県防衛を支える会・英霊にこたえる会などの副会長・顧問=勲4等旭日小綬章

篠崎義人②篠崎義人③