中津市出身の陸軍将校 小川哲雄の評伝 「日本人が知りたかった東洋史」

   2014/05/05

「日本人が知りたかった東洋史」

岩武光宏/著 大分合同新聞社/発売

定価:1800円 紀伊国屋書店福岡本店(TEL 092-434-3100)、大分県内各書店、拓大八王子購買会、等で取り扱っています。

刊行に寄せて

竹内博(59期)
学友会常任幹事・野球部後援会事務局長・自動車部OB会元会長

序文には藤渡辰信拓大総長から「小川哲雄さんの警世の書でもある」と最大級の賛辞が寄せられている。また、衆議院議員の鈴木宗男氏(68期)から推薦の言葉が寄せられ、さらに、帯には作家で元外務省主任分析官の佐藤優氏からも推薦の言葉を頂いている。内容的には、時勢に合った書であり、既に、地元の九州では、話題の書になっていると聞く。

かつて小生の学生時代には、小竹文夫先生(教育大学と兼任)が小川哲雄先生同様に近現代史の講義をされていたことが思い出される。

そして、本書では、小川先生の足跡と並行して母校拓大のことも描かれており、11月3日の拓大大運動会(学生時代の小川先生ら拓大生は英国大使館へのデモ行動)のくだりでは、小生の青春の1コマが思い出された。

1960年11月3日、大学創立60周年記念事業の一環として、入江湊(学友会)会長のメッセージを各支部長に伝えるため、当時、学部4年生で自動車部主将であった小生ら自動車部員18人は大型バス(バスの中には古畳2枚、燃料はゼネラル物産の提供)で西日本一周の遠征へと出発した。

当日、大運動会の最中、五丈原での応援団の壮行を受けながら、小生らは意気揚々と四国・九州へと向かった。とりわけ印象に残っているのは、宮崎を走行中のことである。

1人の男性が手を挙げたため、小生は急ブレーキをかけた。その男性こそ、若き日の藤渡辰信氏(現拓大総長・理事長)、その人であった(当時、民社党の政策審議会に所属し、全国を選挙応援のため奔走中)。小生は誘われるまま藤渡先輩と宮崎・青島を散歩して、帰りに先輩からミカンを1箱買っていただいた記憶がある。20日間の行程で西日本各地を回った青春の思い出である。ちなみに、当時の自動車部長は故緒方誠一氏(34期)であった。

話を本題に戻すが、本書は大東亜戦争終戦時の南京国民政府主席であった陳公博主席一行の亡命を領導した拓大出身将校の小川哲男陸軍大尉の評伝である。1979(昭和54)年~1991(平成3)年にかけて、拓大の教壇に立ち、近代史を講義されている。その時の教え子の1人が今回の著者・岩武氏である。

本書には、小川先生の足跡を通して、戦前の拓大生の心意気が随所に浮き彫りになっている。「資本家に奉仕するために拓大に入ったのではない、我々の次元は国家民族であり、アジアの独立解放にあるんだ」という言葉には時代を超えて我々拓大OBの胸を打つものがある。また、1945(昭和20)年5月25日の空襲に炎上する母校を敢然と護った寺井久元先輩(44期)の秘話、寺井先輩同期の森忠司先輩との友情そして特攻秘話、いずれも感動を受けた。森先輩の辞世を「今さらに何かをか言わん若桜仇をむかへてたつこのときに」は、拓大人の魂を救い、日本人の魂をも救った詩でもある。

また、三笠宮殿下の「戦時下に訴えた国際理解」、のくだりでは、驚きとともに、感動を受けた。なぜならば、小川先生が学生時代に単身渡満した「板垣中将への講義」にみられる拓大魂と「三笠宮殿下の心の叫び」は同じ精神であることを確認できたからである。この歴史の事実と「拓大精神」を、我々は誇りとしなければならない。

さらに、陳公博主席日本亡命中に主席ら三通の親書(当時の内閣総理大臣である東久邇宮殿下、下村陸軍大臣、重光外務大臣、宛て)を若き小川先生は外務省の田尻次官へと届けている。

そして、小川先生は陳主席から、あることを頼まれた。あることとは、「小川さん、あなたに妻の事を頼みたい。機会をみて何とか妻を中国まで送りとどけてもらえないだろうか」ということであった。”他の誰にでもない、君に君一人に頼むんだよ”という陳公博主席の言葉には、国家対国家を超えた人間対人間の絆を感じる。この使命をまっとうされた小川哲雄先生の足跡は東洋道義そのものであり、我々拓大人に勇気と誇りを与えてくださっている。

著者・岩武氏は九州での会社員生活の傍ら今回の執筆を行った。くわえて強烈な個性とバイタリティーの持ち主であり、以前、某政党の公認候補を打診されたほど、志は大きく政治にも明るい。小生が期待している人物の一人である。また、師匠ゆずりの熱血学友でもある。

小川哲雄(おがわ・てつお)(35期)

1914年、大分県中津市生まれ。
県立中津中学を経て、拓殖大学卒業、大陸に渡る。陸軍主計中尉、南京国民政府軍事顧問兼経済顧問補佐官、1945年終戦直後、南京国民政府陳公博主席以下要人7人の日本亡命を領導、京都金閣寺に入る。同年末、陳公博夫人を送って再び中国上海に赴き帰国。以後、聯友(株)、聯友旅行代表取締役等歴任、傍ら評論活動を行う。1979年、拓殖大学理事、同大学政経学部講師、常務理事、専務理事を経て1991年退任。著書・『日中終戦史話』、『風雲浪漫大陸』他多数、2000年3月6日没。

著者

岩武光宏(いわたけ・みつひろ)(90期)

1969年、福岡県北九州市生まれ(原籍 大分県国東市)
拓殖大学卒業後、在学中に小川哲雄から親しく教えを受ける。
北九州市立大学 大学院終了(法学修士)
現在、民間会社勤務の傍ら執筆活動を行う。

岩武氏新聞記事