拓殖大学の日本語教育

   2014/03/26

拓殖大学の日本語教育①

拓殖大学は、社団法人アジア協会(現独立行政法人・国際協力機構・JICA)の委託を受け、インドネシア共和国政府派遣賠償研修生に日本語を教育することを目的として、昭和36(1961)年2月1日に『拓殖大学日本語研修所』を茗荷谷校舎(現文京キャンパス)内に設置した。翌2日には162名の日本語研修生を迎え入れ、本学における制度的な日本語教育をスタートさせた。

これは、本学の崇高なる建学の理念を具現化するために当時の西郷隆秀理事長自らが、陣頭指揮を執って奔走された、我が国近現代史の中で先駆的な役割を果たした国際貢献事業であった。

インドネシアは我が国にとって天然資源の供給先として、戦前から一貫して重要な国とされてきた。戦後日本の経済復興が進む中、我が国とインドネシアとの賠償協定に基づき、両国の友好関係の増進に貢献するという目的で、多くのインドネシア人を賠償留学生・賠償研修生として受け入れた。このころは、拓殖大学はもとより国内の主要大学には必ずインドネシア人が学んでおり、このことによって我が国がどれだけインドネシアについて理解を深めたか計り知れない。

また、帰国した彼らが親日家としてインドネシアに存在することは、我が国にとっても大きな財産となっている。

本学の中曽根康弘名誉総長は、昭和58(1983)年に首相としてインドネシアを訪問したとき、「インドネシアの繁栄なくして日本の繁栄もなし」と語っている。

中曽根名誉総長は首相在任時、留学生10万人受け入れ計画を提唱した。それは同氏が総長就任の告示において、「矢部貞治元総長は我が恩師である」と言明、当時はすでに亡くなられていた矢部元総長の意を継承することを意味していたと思われる。

矢部貞治博士は総長就任告示で「本学の卒業生はアジアの『地の塩』にならねばならない」と求めた。海外からの留学生を積極的に受け入れ、日本人と同じ目線と立場で教育し、将来大きく雄飛させるために日本語教育に特に力を入れている本学の所以がここにある。

本学のインドネシア共和国政府派遣賠償研修生の受け入れから始まった伝統ある日本語教育も、大学の発展と共に日々充実し、その沿革は、昭和36(1961)年に日本語研修所、昭和44(1969)年に日本語教師養成講座、昭和47(1972)年に留学生別科、昭和57(1982)年に中国帰国者茗荷谷日本語教室、平成9(1997)年に大学院言語教育研究科日本語教育学専攻修士(現博士前期)課程、平成11(1999)年に大学院言語教育研究科言語教育学専攻博士後期課程、平成15(2003)年に日本語学校、平成19(2007)年に日本語教育研究所を開設させ、平成21(2009)年には拓殖大学第一高等学校の外国人生徒(AFS留学生)への日本語教育を高大連携教育の一環として実施するに至った。

また、海外における展開も盛んである。中でも平成5(1993)年からマレーシアで実施されている日本留学プログラム(日本のODA事業として両国間の友好関係にも寄与している)において、本学は当初より日本語教育の中心的な責任を担い大きな評価を受けている。

さらに、このプログラムをきっかけとして、日本国内の有力私立大学12大学と国立大学法人の3大学が参加し、平成18(2006)に発足した日本国際教育大学連合(JUCTe)では、本学は当初より幹事校を務め、福田勝幸理事長はJUCTe常務理事、渡辺利夫総長はJUCTe理事長として、常に運営のリーダーシップを発揮している。

そして、本年5月26日(土)・27日(日)には、本学が昨年日本語教育50周年を迎えたことを記念に誘致した日本語教育学会が、新装となった本学茗荷谷キャンパスに於いて盛大に開催される運びとなっている。

私は高等学校勤務を経て、夜間、本学の日本語教師養成講座に学び、母校で留学生教育に携わる縁に恵まれているが、今後も外国人学生への適切な支援や助言指導ができるよう、一所懸命努力精進を続けて行きたい。

創立110周年を迎えた伝統ある我が拓殖大学の校歌は、「使命は崇し青年の力あふるる海の外」と結んでいる。

留学生別科勤務 工 一仁(学77期)

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