文京区制70周年記念 写真で綴る「文の京」歴史と文化のまち

 

表紙

文京区発行(A4判、本体価格1,700円)

戦前の本郷区と小石川区が戦後に統合して文京区になった。旧本郷にも小石川にも文豪が多く住み、大学の数も多いなどから「文の京」とも呼ばれている。当然、旧小石川区茗荷谷町32・33番地に1900(明治33)年から建設に入った拓殖大学も、この土地では官立より早く最古の歴史を誇る教育機関だ。文京区関係者の呼びかけに手をあげて応じ、歴史を物語る写真ほかの資料を計5点を提供し、掲載された。①作家戸川昌子も住んだ女子アパート前の都電通り②麗澤湖で遊ぶ子供=編さん委員会副委員長の芳賀徹氏が子供時代、拓大の庭でトンボ釣りして遊んだ話などで色が付いた③サトウハチローと茗荷谷④空襲で屋根が焼け落ちた恩賜記念講堂(一面焼け野原で本郷台まで遠望できる)⑤清水坂都電停留所からバラック立て民家の先に見える拓大全景などなど。

B29大編隊による帝都空襲は1945(昭和20)年3月10日未明の下町(焼夷弾攻撃)だけではない。4月14日(同)は巣鴨・駒込・大塚の山手地区が爆弾焼夷弾の雨を浴び、この時大塚1丁目の帝国女子専門学校と付属日本高等女学校が全焼(現神奈川県の相模女子大学)した。爆弾で防空壕に女子舎監と学徒7人が生き埋めになり、拓大防空隊の学生が救援活動で3人を助けた秘話は前年4月15日付朝日東京版に。すでに姿のない旧帝国女専の話は忘れられがちなので、拓大百年史編纂室から文京区担当者に申し入れ、1ページ分に写真入りで立派に紹介された。

そして、ついに5月25日未明、赤坂の山手大空襲で猛火が南の強風に乗って江戸川を越え、拓大の本館・図書館・3号館以外が戦火に遭った。解説の森まゆみ講師が「戦災被害は拓大恩賜記念講堂の写真が貴重でした」と述べた。(宮澤正幸)