相模女子大学長・同窓会長が戦災犠牲者慰霊に来校

 

はじめに

相模女子大来校①

4月15日(金)付朝日新聞東京版ほかに別掲の記事が載った。狛江市在住の赤澤徹会長は一読感奮を覚え、登校するや「この新聞記事このまま載せろ」と下命。学外では大塚1~2丁目町会掲示板6カ所と、茗荷谷町会掲示板などにも地元役員の協力で記事の拡大コピーが展示され、道行く人の立ち止まっては熱心に読み、かつ拓大西門~東門守衛所などにも立ち寄って話を聞く姿が見られた。そこで小誌は、いささかの解説を加えて読者諸賢のご参考としたい。

ヒストリー

71年前(1945=昭和20年)4月13日深夜から14日未明にかけて、敵B29大編隊が東京の山手各地を空襲した。範囲は大塚・巣鴨・池袋などで、3月10日の下町大空襲~5月24日の山手(青山方面)は主として焼夷弾だけだったが、この夜は焼夷弾に加えて小型爆弾投下による戦災被害が目立った。直撃を受けた帝国女子専門学校と付属日本高等女学校・同静修女学校は全壊した。道一本隔てた至近100mの拓殖大学は危うく戦火を免れた(注=5月に青山から強風による猛火を受け、大学のA館と旧図書館・3号館以外が被災)。帝国女専には勤労動員に徴用された多数学徒のほかにわずかな学校防衛任務の学生が残っていた。明治時代に大塚町に移転してきた歴史ある専門学校でもあり、隣の拓大生と意気投合してゴールインしたケースも少なくない。

救援活動

女専の一角に6棟の寮があり、空襲警報が鳴ると、それぞれの防空壕に避難することになった。その1つが至近弾を受けて生き埋めにされた。その場所は、現地下鉄丸ノ内線茗荷谷駅前・紫山堂薬局と、旧都バス車庫の中間とみられる。惨事は現23階建て5年前新築マンション敷地内でおきた。7人が生き埋めになり、舎監の女子教職員と女生徒3人が人工呼吸の甲斐も空しく、戦災死をとげた。1年生1人を含む3人だけが救助された。この時、救助に挺身活動したのが拓大学寮(現地下鉄小石川車両基地の一部にあった高華寮)の学校防空隊の学生たち(専門部20期~学部47期)。猛火をくぐり、手で防空壕の土を掘り返し、担架に乗せて拓大校庭へと運び、生き残った女専生徒と協力して人工呼吸など施したほか、4人の遺体を恩賜記念講堂(現八王子国際キャンパスに移築)まで運んだ。

相模女子大学となって

一夜にして犠牲者を出し、廃墟と化した同校は拓大校舎の一部を借りて8月15日の終戦後も仮授業を再開したのち、神奈川県相模原市の旧陸軍通信学校・部隊跡地に移って再建を図った。1949(昭和24年)には新制相模女子大学として生まれ変わった。ちなみに日本の各女子大学が正式に誕生したのはすべて敗戦後のことである。今から8年前、相模女子大の小泉典子学長(のち同窓会長・理事=医学博士)同窓会長の秋山澄子さん(立川市、90歳)と学生課長の3女性代表は、拓大役員室を表敬訪問して戦中戦後のお礼を述べた。帝国女子専門学校跡地は、その後三井住友銀行茗荷谷研修所となり、現在は使用されていない。しかし、同行管理部の好意で4月14日正門の扉が開かれ「地名大塚発祥の地」碑の前で亡き犠牲者に花を手向け、慰霊の合掌。

地名大塚発祥の地

「大塚発祥の地」は拓大西門から拓大国際教育会館=G館F館(元外務省研修所)へ通じる右側にも文京区教育委員会の説明板が掲げてある。相模女子大の谷崎理事長(文豪谷崎潤一郎おい)ご一行の人たちもご存じ、文化11(1814年)曲亭(瀧澤)馬琴作「南総里見八犬伝」の主役となる「犬塚」剣士の名は「大塚」の地を舞台にしたこと。そして馬琴の墓まで拓大東門(旧正門)前の深光寺境内にあること。「地名大塚発祥の地」碑は史蹟のことだけでなく、戦災犠牲者となった旧帝国女子専門学校にも触れている。今年は戦後71年目。来年以降もささやかに花と水だけは手向けたい――そう願う執筆者である。秋山―小泉両氏からは4月14日「八王子に集まって午後1時半はるか大塚に向けて手を合わせました」と礼状をいただいた。旧友相模女子大学に幸あれ――

百年史編纂室 宮澤正幸(51期)

相模女子大来校②

地名「大塚」発祥の碑

相模女子大来校③

裏面

相模女子大来校④相模女子大来校⑤