旧軍将兵のご遺骨収容活動報告

 

旧軍将兵のご遺骨収容活動報告①旧軍将兵のご遺骨収容活動報告②

大東亜戦争激戦地の硫黄島に眠る英霊をお迎えに

平成26年2月12日、白布に包まれた161柱の英霊は、政府遺骨収容団に奉持されて海上自衛隊の儀仗隊による「捧げ銃」と、硫黄島に在島する自衛隊員総員の挙手の敬礼に見送られ、航空自衛隊の特別便で硫黄島航空基地を離れた。

そして2時間半の飛行時間ののちに降り立った空自入間基地では、関東では珍しい雪が降り積もる中、基地隊員総員の出迎えを受けて約70年ぶりに内地の土を踏んだ。本土防衛の楯となって散華された将兵の帰還である。

英霊を抱いた収容団員と、各基地において整列して英霊の見送りと出迎えを行った自衛隊員のその眼差しには、一様に「英霊の皆様、本当に長い間ご苦労様でした。」という感謝と慰霊の気持ちがあふれていた。

拓殖大学アフガン会顧問であり、海上自衛隊OBの村中博文先輩(70期、空手部)が退官後から従事されている大東亜戦争で戦死した旧軍将兵のご遺骨収容活動が、平成26年2月4日~13日の日程で、東京都小笠原村硫黄島で行われた。

今回行われた活動は、「硫黄島戦没者遺骨帰還特別派遣」といい、今回の日程で収容したご遺骨のほか、それ以前に行われた複数回の「通常派遣」で収容されたご遺骨も合わせて内地に帰還させるというものであった。

硫黄島は東京都の南約1,250㎞の太平洋に浮かぶ火山島であり、その大きさは東京都品川区ほどである。扇を半分広げたような形をしており、その扇のかなめに位置する標高169mの摺鉢山以外、ほぼ平坦な台地であり地上に身を隠すところはない。

土壌は土丹岩という比較的もろい土質であるが、火山島のため地中は熱気をはらみ、少し掘り下げただけで70~80℃もある。地表の比較的温度が低い場所でさえ40℃以上あることから川や湧水もなく、水は時折降る雨に頼らざるを得ないという過酷な島だ。

村中先輩は、硫黄島での活動を次のように振り返る。

大東亜戦争当時、ここは本土とB-29の基地があるサイパン島のほぼ中間にあったことから本土を守る不沈空母として位置付けられた。戦闘機や偵察機が配備されるとともに、約21,000名の将兵がこの島を守るために派遣され、平坦な台地が続くその下に地下壕を張り巡らせて米軍の上陸を待った。そして昭和20年2月16日から3月26日にかけて、押し寄せる米軍を相手に壮絶な戦闘が繰り広げられた。

今回は硫黄島航空基地の北側の2か所で収容活動を行ったが、地下壕はひと一人が身をかがめてやっと通れるほどの大きさで、2月とはいえ壕内の温度はかなり高く、狭いサウナの中で活動しているようであり、肉体的にかなりの負荷がかかる作業であった。

しかし、この時期は折しも69年前に、この地で激しい攻防戦が繰り広げられた時と同じ月であったことから、過酷な地下壕に潜みながら島を守備していた将兵の想いをより一層感じ取る機会となった。

耐え難いまでの異常な高温と硫黄ガスが充満する中、水はなく食糧も枯渇する状態でありながらも、のどの渇きや空腹に耐えて総延長18㎞以上に及ぶ地下壕を完成させた苦労は察するに余りある。

そして、自らが掘ったその地下壕で攻撃の機会を伺うその時、壕内に向けて放たれた火炎放射器の炎が岩肌をなめるように襲いかかることにも耐え、そして次々と打ち込まれる砲弾や降りやまない銃弾に対し、敢然と立ち向かった勇気に敬意を表したい。

また、太陽の光も届かない暗い壕の中で、故郷の両親や家族の身を案じていたであろうことを想うと胸が痛い。これらの想いが私の気持ちを複雑にする。

すると、必ずこの戦いに勝利して祖国に帰還するという、将兵たちの強い望郷の念が伝わってきた。この念があったからこそ、どんな苦難にも耐え、米軍が5日で奪取すると豪語したこの島を40日も戦い抜き、われ以上の大出血を敵に強いることができたのだろう。

昭和20年3月26日、栗林兵団長以下の最後の突撃をもって硫黄島守備隊の組織的戦闘は終わったが、約70年を経た今日、いまだ1万以上の将兵が、時が止まった状態で島内の各所で望郷の念を抱いたまま眠っている。

政府は今後の10年をもって英霊帰還事業を促進することを発表し、この活動に力を入れて取り組む姿勢を明らかにした。このことは、一人でも多くの英霊が一日でも早く祖国に帰還して頂けることに繋がると嬉しく思っている。

大義のために命を捧げた英霊を祖国にお連れすることは、後世の私たちに課された義務であり、使命であると信じているから、と。

拓殖大学アフガン会 幹事長 丸山聡(92期)