海外で活躍する卒業生 第10話 合気道師範 山田惇(64期、マレーシア)

   2014/03/25

海外で活躍する卒業生 第10話

拓大入学と同時に合氣道部入部、以降終生に亘り合気道に関わり現在マレーシアの首都クアラルンプールで合気道師範として生活しております。私の生い立ちと共に今日迄の経過等自己紹介させて頂きます。

運動苦手で虚弱体質

「受け身だけでも覚えて少しでも健康な身体になれる様に」との父の指示に従い、中学に入り柔道部へ入る、何も知らず入ったのですが、柔道部は当然体の大きな猛者ばかりで投げられ役だけの毎日だった。受け身は出来るようになっても全く面白くなく、2年目に退部、高校は東京を遠く離れた大島に在る水産高校に入り、水泳やカッターボート漕ぎに明け暮れた事が人並みの健康を取り戻す成果となった。今思うとこの事が人生の方向転換であった。拓大では何か武道を身に付けたいと思い合氣道の紹介を見て入部。

卒業後の稽古

貿易会社に勤めながら合気会本部道場が住まいの近くであり、拓大OBで拓大合氣道部設立者でもある藤田昌武先輩がこの道場の職員で指導員をされていた事もあり合気会本部へ入門。毎朝6時半から1時間の稽古に参加し昇段審査も5級からやり直した。稽古と仕事を続けて5年目…

マレーシア赴任

マレーシア、サラワク州の首席大臣が合気道見学に本部道場を訪ねマレーシアへの指導者派遣を依頼、その時対応されたのが当時本部道場事務局長であった藤田昌武先輩だった。

その後、合気道二代目道主横芝吉祥丸先生からのご推薦を戴きマレーシア、サラワク、クチン州へ1971年10月赴任となった。

クチンでの稽古開始

当時クチンまでは羽田空港を朝出発、台湾、香港と立ち寄りシンガポールへ夜着き1泊、翌朝プロペラ機にて2時間程でクチン着。英国植民地時代そのままのたたずまいに感銘した。今でも変わらぬクチンの美しい街並み。単身にてクチン赴任となったが若気の至りでもあり、又スポンサーが首席大臣と言う事でなにひとつ不安は無かった。

言葉に付いては拓大2年までインドネシア語を取ったものの不勉強で、その頃丁度、日本からの賠償によるインドネシア留学生が大勢東京に来ていた為、何人かと友達になり、時には関西旅行のボランティア案内を引き受け、何とかインドネシア語会話を身につけた(マレーシアもインドネシアも共通の言語)。

当時クチン在住日本人は10数人のみ、クチンに着いて1ヵ月はホテル住まいでその後首席大臣官邸の一室での居候となり同時に稽古開始となった。

政府関係者やイスラム教普及青年団など殆どがイスラム教徒のお弟子さんで、合気道を見た事も無い初心者ばかり首席大臣も含め30人程のスタートとなり、先ずは朝稽古を始めた。その内警察、税関などから指導者育成の依頼により若い指導者育成に毎日3時間~6時間の特訓を開始した。

結婚、育児と家族

半年後、現地生活に何とか見通しが付き婚約者であつた妻を呼び寄せる。首席大臣の仲人により結婚、そして華燭の宴を挙げて頂いた。

妻は女性と子供への合気道指導に当たった、1年後男子出産更に1年後女子出産、クチンには日本人学校など無い為子供2人は現地学校入学、娘は高校から日本で大学を卒業。

クチンでの生活

夫婦共にクチンでの生活に慣れ親しみ食事も皆と共に手で口に運ぶ美味を知る。三度三度のマレ-シア料理には舌鼓を打つての生活であつた。銀婚祝儀で初めて口にした現地の赤飯が懐かしく思われるもの。稽古の方はと言うと順調とばかりは行かず町道場を増やす毎にマレ-人、華人、ダャック族(原住民)それぞれの宗教、生活習慣の違いにより難しい状況に立たされた事もあるが細々と続けている内にクチンにしっかりした組織の2道場ができ、今日益々の発展を遂げている。

ブルネイ王国との縁

1995年隣国ブルネイ王国の日本大使館を通じ、モハメッド外務大臣個人指導の為ほぼ1ヵ月ブルネイ滞在となった。又クチンでの合気道も安定してきた。

それに対しマレーシアの首都クアラルンプール始め各都市での合気道はまちまちで大半が華人達によるがどうにも纏まらない状態にあつた所へ、クアラルンプールの警察訓練所から特別指導の要請があり、丁度30年過ごしたクチンを離れクアラルンプールへと移った。

クアラルンプールへ移住

2001年8月クアラルンプールへ引っ越し。長男はインジネシア・バンドンの学生時代から開始した町道場指導を現在も継続。日本の大学を卒業後東京で就職した娘は現在クアラルンプールに起居し、結婚し二児の母親となっている。やはり合気道の稽古は続け、指導に当たっている。

クアラルンプールでの合気道生活はクチンとは環境が全く異なり、大都会そのもので日本食愛好家も多く、日本の物が満ちあふれている。日本人会館も立派な建物で警察での指導と共に日本人会館内に合気道部設立となり日本人を中心に現地の人々も多く稽古に参加している。

町道場の設立も慌ただしく先ずは2ヵ所に道場を構え直接の指導に当たってきている。また傘下道場として現地の方々によって既に在る道場また新たに出来た道場10数箇所に上る。

東南アジア及び中東への指導

クアラルンプールへ移り住む前後に、ヨルダン国アンマンへ指導と昇段審査の為毎年訪問する運びとなった。更にアラブ首長国アブダビからも要請があり、近年、2009年10月にはルーマニア、オーストリア等へも指導に出かけた。この時はマレーシアの会員数名も参加した。

この頃タイ国から東南アジア合気道連盟設立案が提示されて参加協力を約し、ほぼ2年毎に輪番で合気道大会を開く事が決められ、今回は私の40周年を機にマレーシア国開催となり画期的大祭との支持賜る。毎回マレーシアでとの声が上がるも、とても当方は身が持たない。

今後健康が保たれる限り合気道を通じ日本とマレーシアは勿論の事、東南アジア各国そして中東諸国との親睦に僅かながらでも役立てればと夢を抱く。

回想

40年以上合気道を礎に努力してきたにも拘らず、僅か、これだけの事しか出来なかったのかと反省するのみであるが能力の至らぬ者には致し方ない。お許しあれ。

今日迄合気道本部道場故植芝吉祥丸二代道主、そして植芝守央現道主始め拓大OB藤田昌武先輩方々のご尽力賜りました事、深く感謝申し上げます。又当初マレーシアへの招聘下さったTun Abdul Rahman Yakob閣下(ご健在85歳)始め多くのマレーシア政府関係者に感謝申し上げると共に、当アカデミー合気道塾マレーシアの会員となられた皆様には益々の稽古修行に励まれる事を願うと共に至心感謝申し上げます。

寄贈 合氣道部OB拓氣會 前會長 田村新太郎(64期)