特攻隊振武寮/別冊正論11

   2014/05/05

特攻隊振武寮①

特攻隊振武寮

大貫健一郎(専16期) 講談社 ¥1,890-

7月12日付朝刊(新刊広告)で見つけたばかり。ホヤホヤの新刊である。著者大貫先輩は2006(平成18)年10月と07(平成19)年10月の2回、NHKテレビのドキュメンタリー番組で渡辺孝ディレクターの取材に応じている。その映像を拝見し、以後大学創立百周年史編纂室関係の戦没者調査で、ご協力をいただいている。今回もお手紙の中に萩市指定史跡桂太郎旧宅パンフレットが同封されていた。7月10日、山口県宇部市にいる姉君卒寿(90歳)祝賀に西下され、萩に立ち寄って学友会山口県支部建立の校歌碑の前で感動された由。

実は大貫先輩、文中にも記載してあるように、生まれは1921(大正10)年北九州の小倉だが、父君の勤務先が台湾総督府のため、3歳から台湾育ち。基隆中学校から内地の拓大に進学。桂太郎初代校長が第2代台湾総督だったことも絡めて何かの縁を感じる。

大貫先輩は、大東亜戦争が始まったため大学専門部16期を半年繰り上げ卒業となる。折柄、陸軍特別操縦見習士官1期生(海軍の飛行専修予備学生13期に相当)の募集で戦闘機に乗る。1945(昭和20)年4月5日、鹿児島県知覧基地から沖縄の敵艦船に特攻をかけるため、一式戦闘機隼(はやぶさ)に250kg爆弾を抱えて中継基地の喜界島に着陸。第22振武隊である。この日、大貫勝尉たちは戦死したことになり、原籍の役場では戸籍抹消となる。

ところが翌6日朝、徳之島上空で待ち伏せしていた敵グラマン戦闘機に攻撃され、広島師範学校(現広島大)出身の大上少尉機が爆発。大貫機もやむなく徳之島に不時着。やがて福岡に生還する。そこで待っていたのは作戦参謀による「なぜ帰ってきたか、卑怯者め」の連発だ。振武寮に軟禁され、なぐられる。この怒りは戦後今でも消えない。

本の表紙の帯に「父は特攻隊が美化されることを常に危惧していました」(大貫妙子さん=ミュージシャン)とある。女優三田寛子が「とても美しい、いやしの歌声」と称賛するのも道理。透き通る歌声が素晴らしい。NHKのFM放送に月1回出演している人だ。

紙面が足りない。大貫少尉たちが東京・成増基地(元練馬区光が丘)から知覧へ向う前夜、大塚駅前の待合で別れの宴を張る。翌日、離陸の見送りに、待合のおかみと息子が来た。拓大生の富岡豪一(46期、戦後初期の応援団長)だった。

本の中に、蒙古放浪歌でシーンとなる出撃前夜のこと。明大ボート部、同マンドリンクラブ、東農大の西長、国士舘専門学校の剣道5段、大阪歯科医専、三重高等農林(三重大)など同期の戦友のことも。

別冊正論11

産経新聞社 ¥1,000-

はるかなる昭和-特集の中に元第16軍参謀部通訳・中島正周氏が「インドネシアとともに『昭和』を歩んで」を書いている。350年に及ぶオランダ支配に終止符を打った日本。PETA(郷土防衛義勇軍)の教官としてインドネシア人とともに在った日を今語ろう-の中に、当然語られるのは柳川宗成中尉(拓大専門部10期)のこと。インドネシア人から”国軍の人”と尊敬された有名人だ。

山本卓眞 拓大後援会長

同誌P230~231には「六十余年前の訓話」富士通名誉会長の山本卓眞氏(拓殖大学後援会長)も載せている。陸軍航空士官学校出身の氏は、終戦前日、ソ連軍の不法侵攻に対する「若楠特攻隊」として隼に爆装していた。所は満州・奉天飛行場。わが身を犠牲にして終戦と同時に特攻隊員に内地帰還命令を出した部隊長のことなど…。

評 拓殖大学創立百周年史編纂室・宮沢正幸

特攻隊振武寮②別冊正論