土井 晩翠 作
一、
二、
夜や関山の風泣いて 暗に迷ふかかりがねは
令風霜の威もすごく 守る諸堂の垣の外
丞相病あつかりき 丞相病あつかりき
三、帳中眠かすかにて
こゝにも見ゆる秋の色 銀甲堅くよろへども
見よや侍衛の面かげに 無限の愁溢るゝを
丞相病あつかりき 丞相病あつかりき
四、風塵遠し三尺の 剣は光曇らねど
秋に傷めば松柏の 色もおのづとうつろふを
漢騎十万今更に 見るや故郷の夢いかに
丞相病あつかりき 丞相病あつかりき
五、夢寝に忘れぬ君王の いまはの御こと畏みて
心を焦し身をつくす 暴露のつとめ幾とせか
今落葉の雨の音 大樹ひとたび倒れなば
漢室の運はたいかに 丞相病あつかりき
六、四海の波瀾収まりて 民は苦み天は泣き
いつかは見なん太平の 心のどけき春の夢
群雄立ちてことごとく 中原鹿を争ふも
たれか王者の師を学ぶ 丞相病あつかりき
七、末は黄河の水濁る 三代の源遠くして
伊周の跡は今いづこ 道は衰へ文
管仲去りて九百年
誰か王者の治を思ふ 丞相病あつかりき
これは土井晩翠の名詩である。「桃園義盟」に始まり、孔明の苦心孤忠を画く「三国志」隣邦中国を想う本学の学生達の心を痛くゆすぶったに違いない。
何時の頃から校庭を「五丈原」と称し、学堂を「臥竜窟」と名付け、そしてこの晩翠の詩を愛唱したものである。
本学の校祖として初代校長桂太郎公は、明治四十五年七月、後藤新平氏等を随え渡欧露都にて、明治大帝崩御の報に接し、急拠帰国、直ちに内大臣兼侍従長を拝命、新帝を輔ひつ申し上げたのである。
この大任を受くると及び、本学校長を辞し、これを小松原英太郎氏にゆずったのである。
越えて十二月組閣の大命を拝し、三たび首相の印緩を帯びたのであるが、翌大正二年総辞職し、病を得て帳中深く引こもったのである。
劉備玄徳の遺嘱を受け、幼帝を扶けて、天下三分の計をめぐらし、五丈原頭に馬を進め、遂いに病んで再び起だなかった諸葛孔明の心事は、そのまま桂公の胸中であったろう。病に倒れた公の胸中を去来したものは、大正日本の前途と、東亜の形勢であったろう。孫文の中国革命に深い理解を持ち、アジアの回復を希念していた公の経論も、天、遂に時をかさず、これをすべて白玉楼中に送ってしまったのである。