開拓科20期会
熱海市「新かどや」にて開催
毎年、6月の第一日曜日の開催と決まっている「拓大開拓科20期会」は、恒例となった熱海市「新かどや」にて開催された。
第二次世界大戦下の昭和19年4月の恩賜記念講堂での入学式から数えて68年を経ての同期会も参加者4人(他に前日急病のため欠席者1人あり)の寂しき限りであった。
思えば、昭和40年に渋谷の「鳥八」の二階で発足した「開拓科20期会」も昭和61年5月、宮城県気仙沼市大島(今は亡き菊田栄男の出生地)での一泊旅行に始り今回で27回目となった。
この間の平成4年6月の宮城県遠刈田温泉(昭和20年初夏に「農兵隊」の幹部となるべく我々開拓科の学生が短期訓練を受けた)での開催には29人の参加者があり、また、先輩である時の蔵王町町長、愛知県鳴海町の住友金属工場での勤労動員の小隊長であった猪股虎三先輩(仙台市出身、在住)のご参加を頂いた。
この29人の参加者の内、開拓科は26人であったが、このうち今回の開催通知発送者はわずか8人で、いかに多くの友が黄泉に旅立ったことであろうか。
今年も神戸から石原琢が杖を携え、また、糸魚川の高野順一は腰痛を堪えての参加と東京から松山文雄と関根一夫が参加した。残念ながら阪口一郎が前日急病となり欠席した。
学友会本部から頂戴した「茗荷谷たより」その他の資料をむさぼり読んでいたが、万年幹事の関根から大学の近況等の説明があり、ロシア語出身の石原琢から「第二次大戦下の我々の時代にロシア語、インド語があり、国際大学を謳う我が大学になぜこれらの学科がないのか」との質問があった。
昭和19年には前年の文化系学生徴兵猶予の制度が廃止されたため、文化系予科の募集がなく、我が拓殖大学も専門学校令の開拓科・商科・司政科の3科が募集され、夫々支那語・南洋語・フィリッピン語・インド語・露西亜語と各語学別に入学試験が行われた。私は開拓科南洋語の入学試験を受け、晴れて開拓科南洋語に入学した。
戦前の拓殖大学の入学試験が、早稲田、慶應より難易度が高かったのは、海外雄飛を胸に抱いた青年が、自分が行かんとする目的地を選び、尚かつ、かの地において何を為さんとするかを選んで拓殖大学に学ばんとして、全国各地からまたは満州を始め外地からも紅葉ヶ丘に集ってきた。
翌日の朝食後、来年も元気で6月の再会を約し散会した。
幹事 関根一夫